《金シャチ横丁・1》 建設予定地について 〜 郷土史愛好家の目から


2011/10/28の中日新聞の一面に、名古屋城正門南の敷地に城下町のようなテーマパークを建設する計画が進んでいる、という記事が出ました。伊勢神宮のような「おかげ横丁」を作るとのことでした。

そうしたテーマパークは歴史好きの私としては大歓迎なのですが、この建設予定地は、(多くの方にあまり知られていませんが)、名古屋の名木が集在するホットスポットであり、かつ、歴史的重要スポットなのです。


江戸時代、「三の丸・天王筋」と呼ばれたこの場所は、名古屋市内最大のイチョウ樹が生存し、様々の貴重な樹木が生存しています。歴史的には、尾張徳川家の御神域であり、家康が幼少の頃をここで過ごしたという記述も見られます。歴史のテーマパークを作らずとも、この場所そのものがすでに、守っていかなければならない歴史スポットなのです。


私は郷土史愛好家として、名古屋市民のみなさまに「金シャチ横丁」の建設予定地の歴史と自然を知っていただくべく、このページを作成しました。このページが、市民のみなさまのご理解の一助となれば、幸いです。

市に対しても、現在残っている歴史的遺物の保護自然の保護を求めていきたいと思っております。現存する自然や史跡をうまく利用する形での開発をお願いしたいです。

本物の歴史・自然と共存した、心が豊かになるテーマパークが創られることを、願っております。



小滝 ダイゴロウ (郷土史愛好家・2011/10/29)







■江戸時代の三の丸、天王筋

 
名古屋城の三の丸は、巨大な大名屋敷が建ち並ぶ、上流藩士たちが暮らす特別な区域でした。

名古屋城正門の南の区域(地図の赤い部分)は、御神域でした。

《金シャチ横丁》の建設予定地は、ちょうどこの区域と推測されます。


この場所は、西のほうから、

・代々の藩主の霊廟
・徳川の祖・家康を祀った東照宮
・名古屋城築城前からこの地に祀られている亀尾天王社

…が建ち並ぶ、尾張徳川家にとっての聖域だったのです。
江戸末期製作
「名古屋城下図」
名古屋市蓬左文庫蔵
現代語訳・尾張名所図会・第一巻
ブックショップ・マイタウンより
 







■三の丸・天王筋の、往時の様子

当該地域の、明治ごろの風景です。一番上に名古屋城の天守閣が見えます。画面中央が前述の御神域で、寺社が並んでいます。
寺社の南側の通りが、天王筋と呼ばれる通りです。画面の右端に柵が見えますが、柵のむこう側が内掘になります。
明治期の屏風・川崎千虎・画 (部分)







■江戸時代の地図と、現在の地図との照合 (寺社は江戸時代のもので、現在は残ってない)

2011年現在、その場所に立地するのは、

・名古屋城 駐車場
・独立行政法人 水資源機構 中部支社
・名古屋 農林総合庁舎 第一号館 (東海農政局)
・名古屋 農林総合庁舎 第二号館 (東海農政局)
・名城公園宿泊所(ホームレス保護施設・市)

 …です。

上の江戸時代の地図を、現在の地図に重ね合わせると、次のようになります。



(※この地図はGoogleマップをもとに、 先出の江戸末期製作「名古屋城下図」から比定して、作成しました。)


この区域のなかで、歴史の痕跡を伝えるのは、名古屋農林総合庁舎二号館の裏にある、天王坊後園の遺跡と、大イチョウに代表される名木たちです。この区域を開発するにあたっては、これら歴史の遺産、自然の遺産を、大切に保護してゆく必要があります。


・大イチョウ … 市内最大
・オガタマノキ … 市内最大・最美
・イブキ … 相当の古樹
・ムクノキ … 名古屋城一帯では、最大
・イヌマキ … 市内最大




それらの遺物を包含する、今はなき亀尾天王社について、次にご説明します。







■亀尾天王社
 
       
西   ←【天王坊後園】
←【安養寺】
         
亀尾天王社 (『尾張名所図会』より)


創建は延喜11年(911)。
敷地内の安養寺は、別当寺です。(昔は神仏混交ですので、神社の管理を寺がします。その寺を、別当寺といいます。)

徳川家康が名古屋城を創建する際(1610)、この地(三の丸)に残しました。
明治9年、現在地(外堀の外側/中区丸の内)へ、遷座。現在の那古野神社



《ポイント》

当地方最古の寺院跡。

信長が幼少の頃、学問を学びに通った寺。

家康が幼少の頃、人質として拘留されていた寺。

(幼き日の信長と家康が、ここで初めて出会ったかも!?)
⇒ 信長と家康と、天王坊について

・祭礼は天王祭と称し、東照宮祭・若宮祭とともに名古屋の三大祭りに数えられた。

・城の総鎮守、城下町の氏神。江戸時代の名古屋の精神的な要であった。










◎安養寺の背後(北)には大きな庭園が造られており、これが「天王坊後園」と呼ばれるものでした。

幼少時の竹千代(徳川家康)も、この庭園に心を慰められたことかと、想像がふくらみます。

下は江戸時代末ごろの様子です。

天王坊後園 (『小治田真清水』より)  
 


◎現在の様子
 




名古屋農林総合庁舎二号館の裏に細長い、狭い空間があり、ここが天王坊後園の遺跡と思われます。起伏した地形は、尾張名所図会に描かれた築山の様子を彷彿とさせるものであり、西側にはなんだかわからない石組みが残っています。

尾張名所図会と比較してみると、本地堂のあたりでしょうか。今後の調査を期待します。

(2011年撮影・以下写真同様)


 


ソテツの木も見られます。上掲の江戸時代の絵にも、右のほうに、細いソテツが描きこまれています。
 









大イチョウ (市内最大)


名古屋農林総合庁舎二号館の裏です。

写真中央、街灯のすぐ右に生えているのが大イチョウです。


この写真では、近すぎてわかりにくいですが、

内掘のほう(北のほう)から眺めると、飛び抜けてその大きさがわかります。


左半分がどうも損壊しているようにも見えます。
この辺りは戦争の被害も大きかったようですので、戦災によるものでしょうか。

その部分からは、たくさんの”ひこばえ”が生えてきています。

もし戦災によって被害を受けたのなら、「復興の象徴」と言えます。


※ 幹を切らなくても、環境悪化などによって主茎が弱った場合などには、ひこばえが多数でることがある…らしい。



先出の「尾張名所図会」を拡大したものです。

大イチョウの江戸時代の姿です。


先出の「川崎千虎屏風」を拡大したものです。こちらにも描かれています。

大イチョウの明治時代の姿です。



















◎現在ある大イチョウは、これらの絵に出てくる神木大イチョウと同じものでしょうか? 


私は丸の内の那古野神社を訪れ、宮司さんとお話させていただきました。

・那古野神社の古い資料は、戦災によって失われている。
・現在の大イチョウと、絵のなかの「神木大イチョウ」のつながりを示す直接の資料はない

 …とのお話でした。



そこで、私は次のように推定しました。


、どちらの絵を見ても、天守閣のほぼ真南に位置する

  ⇒実際生えている大イチョウの木も天守閣の真南である。


 【おおよその座標】

  (名古屋城の経度) 136.899084
  (大イチョウの経度) 136.899109



、両者の絵で寸法を測ってみると、敷地全体から見て、だいたい北寄り3:7ほどの位置に描かれている。

  ⇒実際の現代の地図で位置関係を計って見ると、だいたい北寄り3:7ほどの位置にある。


 【社域の北端から南端までを1.00として、
  南端からイチョウまでのおおよその距離】

  0.74 明治の屏風
  0.72 尾張名所図会
  0.73 現代の地図



、今残っている大イチョウは、幹まわりが5メートル以上あることから、樹齢が相当に高いと考えられ、先の絵が描かれた幕末、明治にはすでに存在していたと考えられる。絵には、神木の大イチョウの周囲には他のイチョウ木は描かれていない。



…という以上の三点から、現在ある大イチョウが、神木の大イチョウだと確定できると思います。




堀端から、南方を見ると、ず抜けて大きい姿が確認できます。


◎この大イチョウの記述を文献でみつけました。

「生きている文化財 なごやの名木」
昭和59年3月
名古屋市農政緑地局

…から引用させてもらいます。


市内最大のイチョウの雄木がある。

往時この地一帯は天王坊後園のあったところで、天王坊は名古屋築城のはるか以前より存在したところから、このイチョウも築城以前のものと推定される。

この雄イチョウのすぐ西にやや小型ではあるが、雌イチョウがあり、夫婦イチョウとなっている。」

(「なごやの名木」より引用)



この大イチョウは、天王社の主(ぬし)ともいえる存在です。まさに歴史の生き証人であり、万全の注意を払っての保全が望まれます。



現地へ行かれた方は、絶対に金網のなかに入らないでください!!

土を踏み固めたり、根を踏みつけることが、ダメージになります!!








■敷地内の貴重な樹木

この敷地内には、大イチョウの他にも、多くの貴重な樹木が存在します。多くの生物がやすらう、憩いの森となっています。
先述の「なごやの名木」より、ご紹介いたします。
 (それぞれの木の場所は、上記の照合マップを参照のこと)










◆オガタマノキ

「往時この地は、徳川家康公の神像を安置した東照宮の跡地であることから、東照宮の造営(元和5年1619)当時植えられたものではないかと推定する。


オガタマは招魂(オキタマ)から転化した名前であることから、神事にはサカキと同様、このオガタマノキは使われていたものと考えられる。

現存するオガタマノキとしては、市内最大最美のものである。」
(「なごやの名木」)


当方の比定では、この敷地は東照宮ではなく、天王社の敷地であると推定されます。このオガタマの木は、この場所が御神域であったという生きた証拠なので、歴史的な観点からも非常に価値があるものです。


とても迫力があり、実際に見てみると、わざわざ「最美」と評される所以がよくわかります。








◆イブキ

「天王坊の古図にもイブキらしきものが書かれており、古図面通りとするならば、相当の古木ということになる。

イブキは主として、暖流の洗う海岸に自生する。多くは庭園や社寺の境内に植えられている針葉樹である。」

(「なごやの名木」)


このイブキも、かつての安養寺と庭園の歴史的な名残りといえるでしょう。

特徴的な樹形で、「炎」という漢字のような樹形をしているので、ひとめでわかります。










◆ムクノキ

「ムクノキとしては名古屋城一帯では最大のものである。元来この付近一帯は天王坊後園の一部であり、相当の古樹である。

幸い婦人文化会館建設の折りも、保存することができた。現在(昭和59)では、会館を修景するポイントの樹となっている。根の周辺は舗装されているが、いつまでも保全していきたいものである。」

(「なごやの名木」より引用)


堀沿いの道路に、目立って大きな木です。樹皮がムケムケなので、すぐにムクノキとわかります。

江南の曼荼羅寺の境内に大きなムクノキがありますが、あの古木に勝るとも劣らない迫力です。









◆イヌマキ1

「元来この地は、天王坊跡地で、付近に数本のイヌマキがあったが、環境の変化で次々に枯死し、わずかに残ったものである。

それでもイヌマキとしては、市内では最大級のものであり、

クスノキやムクノキと較べて環境適応性が少ないだけに大事に保全しなければならない。」

(「なごやの名木」より引用)



西門の正面、やや南寄りにありました。特徴的な針葉樹の葉っぱで、それとわかりました。
  ◆イヌマキ2

「この天王坊の南東の築山の頂上に幹回り2.1メートル樹高20メートルに及ぶ市内最大のイヌマキがあったが、環境の変化のため、昭和56年枯死した。同じところに生育しているムクノキがあるところからみると、わずかな環境変化で枯れたものと考えられる。」 (「なごやの名木」)

とあり、枯死の原因が以下のように分析されています。



 【枯死の原因】

 1、築山の一部切り取りに伴う 根の損傷

 2、地下水位の減少

 3、コンクリートよう壁による 土壌のアルカリ化

 4、コンクリートよう壁の 輻射熱 と 土壌の乾燥

 5、建物による日照、通風の障害


(「なごやの名木」)


!! ここに書かれた枯死の原因は、これからの開発においても、反省をふまえて注意を払わなければならないものです。







【後記】

以上、見てきたように、敷地内の北東部分は《天王坊後園》という庭園でした。そして現在でも古くからの貴重な樹木が残り、庭園の名残りをわずかながら留めております。そのことを考えるならば、《おかげ横丁》もいいですが、《天王坊後園》を復活してもらいたい。

モデルは日本一の城、姫路城の《好古園》です。《好古園》のほうが、江戸時代へのトリップ感と、しっとりとした趣きがあって、むしろこの場所の雰囲気にはふさわしく、好ましいと個人的には思います。

愛・地球博COP10の名古屋ですから、自然の保護に重点を置いていただきたい。そのほうがモリゾーとキッコロも喜ぶと思います(笑)




《金シャチ横丁・2》 市民大討論会 (2012.2.19)
《金シャチ横丁・3》 その後の動き (2014.11.14、2015.11.16)
《金シャチ横丁・4》 オープン (2018.3.29)



 


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管理人: 小滝 ダイゴロウ (郷土史愛好家)

 

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