信長と家康と、天王坊

かくて信秀より岡崎へ使を立て。
幼息竹千代は我膝下に預り置たり。 今にをいては今川が與國をはなれ。 我かたに降参あるべし。
もし又その事かなはざらんには。 幼息の一命たまはりなんと申送りたり。
卿その使に対面したまひ。
愚息が事は織田がたへ質子に送るにあらず。 今川へ質子たらしむるに。 不義の戸田婚姻のよしみを忘れ。 中途にして奪とりて尾州に送る所なり。 廣忠一子の愛にひかれ。 義元多年の旧好を変ずべからず。 愚息が一命は。 霜臺の思慮にまかせらるべしと返答し給へば。
信秀もさすがに卿の義心にや感じけん。 竹千代君をうしなひ奉らんともせず。
名古屋萬松寺天王坊にをしこめをきて。 勤番きびしく付置しとぞ。

国史大系第38巻 『徳川実紀 第一編』
訳;
 こうして、信長の父・織田信秀は、岡崎(の松平家)へ使いを出した。
「貴殿の幼息・竹千代は、現在、人質として、わが膝下に預り置くこととなった。 事ここにいたっては、貴殿も、今川の勢力下を離れ、 織田方に降参するべきであろう。 もしそれが叶わないのであれば、 幼息の一命を頂くことになるであろう」
と、申し送った。
 家康の父・広忠は、その使いに対面して、
「愚息・竹千代の事は、織田へ人質に送ったのではない。 今川の人質とするために送ったのだが、 不義の者・戸田康光 が、婚姻のよしみを忘れ。 途中で奪いとって尾張に送ったのである。 私としては、今さら、子への愛にひかれて、 今川義元への多年の旧好を変ずるというのは、義にもとる。 愚息の一命は、 織田信秀殿の思慮に任せます」
と返答された。
 織田信秀も、さすがに松平広忠の義心に感じ入り、 竹千代君を殺さなかった
名古屋の万松寺天王坊に押し込め置いて、 番人を置いて、厳しく見張った。


西暦 和暦 できごと
1532 (天文1) 織田信秀が、今川氏豊を滅ぼし、那古野城を奪う。
1534 (天文3) 信長生まれる。(那古野城で?)
1540 (天文9) 万松寺開基。織田信秀による。織田家の菩提寺。(現・錦〜丸の内)
1542 (天文11) 家康生まれる。
1547 (天文16) 家康6歳。名古屋の万松寺天王坊へ幽閉。(信長14歳)
1549 (天文18) 今川氏と織田氏の交渉により、捕虜交換。家康、今川へ。
1552 (天文21) 万松寺にて、信長、父の位牌に灰を投げる
1555 (天文24) 信長、清洲城に移る。那古野城はやがて廃城に。
1610 (慶長15) 名古屋城と城下町建設のため、万松寺が大須へ移転。天王坊はそのままの場所に残す。


■家康と天王坊

<家康が幼い頃、幽閉された寺、天王坊>

国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』
(家康=竹千代君を)
「名古屋萬松寺天王坊に をしこめをきて。勤番きびしく付置しとぞ。」

『徳川実紀』は、19世紀前半・江戸時代後期に編纂された幕府の公式記録。

当時の万松寺は、今の
名古屋市中区錦と丸の内二、三丁目にまたがったところで、
大殿を中心に七堂伽藍の備わった一大寺院、敷地は約5万5千坪に及んだ。
推測するに北辺は天王坊(後の安養寺)をも含んだのであろう。

万松寺の山号は「亀嶽林」であるが、この亀の一字は、「亀尾天王社」にゆかりあるものだろう。



■信長と天王坊

<信長が勉強に通った寺、天王坊>

『信長公記』
(信長=吉法師は)
天王坊と申す寺へ御登山なされ」

『信長公記』は、江戸時代初期に成立した中世〜近世の記録資料。

1603-1604年にかけて長崎で発行された『日葡辞書』によれば、
「登山」(とざん)とは、子供が読み書きを習うために寺院に入ること、とある。

文章は主語が曖昧で、このあたりの文章の主語は信長のこととも父・信秀のことともとれるが、
「信長公記」というそのタイトルから勘案すれば、
「信長のことを語っている記述」という態度がはっきりしているので、
主語が曖昧な場合、信長が主語と考えるのが妥当であろう。

信長=吉法師のいたとされる那古野城(現・名古屋城二の丸)から
天王坊(現・三の丸)までは目と鼻の先である。
この地理関係には無理がなく、自然である。

信長が、那古野城ではなく勝幡城で生まれたのだとしても、
幼年期(読み書きを学べるころ)には那古野城に移り、
1555年、21歳で清洲城に移るまでの間は、那古野城に暮らしたのではないか。

那古野城に住む14歳の信長が、天王坊にいる6歳の家康とあいまみえた可能性は、おおいにあるだろう。

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