信長と家康と、天王坊
■家康と天王坊 <家康が幼い頃、幽閉された寺、天王坊> 国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』 (家康=竹千代君を) 「名古屋萬松寺天王坊に をしこめをきて。勤番きびしく付置しとぞ。」 『徳川実紀』は、19世紀前半・江戸時代後期に編纂された幕府の公式記録。 当時の万松寺は、今の 名古屋市中区錦と丸の内二、三丁目にまたがったところで、 大殿を中心に七堂伽藍の備わった一大寺院、敷地は約5万5千坪に及んだ。 推測するに北辺は天王坊(後の安養寺)をも含んだのであろう。 万松寺の山号は「亀嶽林」であるが、この亀の一字は、「亀尾天王社」にゆかりあるものだろう。 ■信長と天王坊 <信長が勉強に通った寺、天王坊> 『信長公記』 (信長=吉法師は) 「天王坊と申す寺へ御登山なされ」 『信長公記』は、江戸時代初期に成立した中世〜近世の記録資料。 1603-1604年にかけて長崎で発行された『日葡辞書』によれば、 「登山」(とざん)とは、子供が読み書きを習うために寺院に入ること、とある。 文章は主語が曖昧で、このあたりの文章の主語は信長のこととも父・信秀のことともとれるが、 「信長公記」というそのタイトルから勘案すれば、 「信長のことを語っている記述」という態度がはっきりしているので、 主語が曖昧な場合、信長が主語と考えるのが妥当であろう。 信長=吉法師のいたとされる那古野城(現・名古屋城二の丸)から 天王坊(現・三の丸)までは目と鼻の先である。 この地理関係には無理がなく、自然である。 信長が、那古野城ではなく勝幡城で生まれたのだとしても、 幼年期(読み書きを学べるころ)には那古野城に移り、 1555年、21歳で清洲城に移るまでの間は、那古野城に暮らしたのではないか。 那古野城に住む14歳の信長が、天王坊にいる6歳の家康とあいまみえた可能性は、おおいにあるだろう。 『《金シャチ横丁》建設予定地について』へ、戻る |