第四章  五代 〜 八代


小滝 為定

    〜 若宮社を創立し、神職・小滝家の基礎をつくった五代目

生年 : 不明
没年 : 不明
通称 : 伊織



● 小滝家と、大滝家

 1598(慶長3)年、大蔵ニシン伝説で亡くなった四代・秀海を、若宮社にお祀りしたのが、五代・為定でした。 この代より仏職と神職が分かれ、為定の血筋は神事に専念することになり、「小滝」を名乗りました。小滝家の屋敷は現在の上ノ国八幡宮のあたりにあったようで、小滝の名は、そばに小さな滝が流れていることにちなんだようです。(今でも上ノ国八幡宮を参詣すれば、小滝につながるせせらぎの音が聞こえます)。

 小滝家では、七代目以降が、みな、「為」の通字を使用していることからみても、小滝家創業者としての、為定に対する敬意がうかがわれます。

 一方、仏職(上国寺)を継いだ秀雄の血筋は「大滝」を名乗ったとのことですが、大滝家の子孫はみあたらず、今となっては定かではありません。上国寺は、九代・了宣法師(1674年卒)までが真言宗で、十代・了徹法師から浄土宗に変わっています。



● 松前藩政のはじまり

 1604(慶長9)年、正月、松前(蠣崎)慶広(57)が、江戸幕府から国政のお墨付きもらいました。
 そのお礼のためか、11月には、秀延(小滝家初代)の怪光伝説の時に建てられた、洲崎の毘沙門堂を造り替えしています。松前藩は上ノ国三社のなかでも特に毘沙門堂を大切にしており、藩主参詣の折には必ず最初に毘沙門堂に参詣しました。藩費によって月次の神楽が催されていたのは、この社だけです。



● 都からの風

 1610年、京の公家、花山院少将忠長(22)が、密通の罪により、流罪となりました。忠長は日本海沿いに北上して、秋田、津軽を経て、翌年3月、上ノ国・花沢館に入り、謹慎しました。この時、小滝為定も忠長に会い、京の話を聞いたことでしょう。
 数ヵ月後、忠長は松前に移り、藩主の厚遇を受けました。これ以降、松前と京の公家社会が密接につながり、松前藩が京文化を積極的に取り入れてゆくきっかけとなりました。(これ以降、松前藩主のもとに京の公家から六人もの女性が輿入れしています)。そうした時流のなかで、小滝家代々の京都来訪も生まれることになったと思われますが、そのことは次の六代・秀次のところで述べます。



● はじめての欧米人

 1618年、キリスト教・イエズス会の宣教師、ジェロニモ=デ=アンジェリスが来訪しました。アンジェリスはイタリア・シシリー島の出身で、この時、50歳でした。ひどい嵐のために、上ノ国の天の川付近に上陸し、陸路で松前に向かいました。これがヨーロッパ人の最初の北海道上陸となります。為定も、同じ宗教家としてアンジェリスに会い、話を聞いたことと思います。
 日本ではそれ以前からたびたびキリスト教禁止令が発せられていましたが、アンジェリスもこの五年後、1623年に、江戸で火刑に処されてしまいます。
 しかし、松前地方にも着々とキリスト教は広まっていました。1640年、松前でキリシタン教徒106名が死罪に処されるという、悲しい事件も起こりました。


 花山院忠長 〜 wikipedia
 アンジェリス 〜 デジタル版日本人名辞典




小滝 秀次

    〜 神祇官頭の相伝を受け、神職の基礎をつくった、六代目

生年 : 不明
没年 : 元禄年間? (1688〜1704)
通称 : 長門 (ながと)
官名 : 長門丞 (ながと の じょう)



● 神祇官、就任

 六代・小滝秀次は、藩主の命によって京都に上ります。そして神祇官頭の吉田家の相伝を受け、神祇道丞(三等官)に任じられ、長門丞に任官しました。これ以降、小滝家代々は京都に上り、任官することが慣例になりました。松前でも、社家は格式によって、神主・禰宜・社司と称しましたが、小滝家が「神主」を称したのはこのためです。
 小滝家は、上ノ国村七ヶ村の各社と五勝手柏森明神までを兼務し、松前藩からは、上ノ国三社の祭祀料として、毎年玄米五俵を給されました。

  吉田家 〜 コトバンク



● 駒ヶ岳の噴火

 1640年、北海道駒ヶ岳が大噴火し、有珠湾沿岸では700人もの人が津波に飲み込まれました。上ノ国でもその状況が確認され、三日間にわたって撒き散らされた火山灰・軽石によって太陽が暗くなったそうです。





● 円空

 秀次の代に、上ノ国を訪れた有名な人物が、円空です。
 円空は岐阜県生まれの修験僧で、全国各地をわたり歩き、「円空仏」と呼ばれる仏像を残しました。その数は十二万尊にも及ぶそうです。(5300尊が現存)
 1666(寛文6)年、35歳の時、円空は津軽から松前に渡りました。北海道では40尊ほどの円空仏が確認されていますが、そのうちの6尊が、上ノ国に遺されています。明治4年の廃仏毀釈(明治政府が主導した、仏教排斥運動)によって、棄却されそうになったところを、人々の善意によって守られて、現在にまで伝わってきました。

 上ノ国村史は、円空仏がどんなに上ノ国の人に愛されてきたかを伝えています。

「見る人の心和ます微笑の相は、どんなに人々の心に慰めを与えたことであろう。子供が好きで、どんなことをしても決して子供に怪我をさせないと信じられ、子供たちが水浴びに連れて行ったらにっこり笑ったとか、馬にして遊んだなどという話が伝えられており、病気の時には護符として飲みでもしたのであろう。ところどころかき傷のついたのもあったりして、微笑ましい話が伝わっている」

 こちらの上ノ国町の円空仏のページに、画像とともに、詳しく紹介されています。


  円空 〜 wikipedia



● シャクシャインの戦い

 1665年の春、空に彗星が現れ、上ノ国の太平山が鳴動し、天の川の河口の水が引いて陸地となる地震が起こります。人々はこれを不吉の前兆と噂しあいました。それが果たして前ぶれであったのかどうか、4年後の1669年、アイヌ人たちの大規模な蜂起が起こります。シャクシャインの戦いです。1550年に「夷狄の商船往還の法度」が定められてから、およそ120年の時が経っていました。その間に、和人たちは増長し、両者のバランスが崩れ、この頃にはアイヌの人々にとって苦しい時代となっていたのです。
 この蜂起は北海道の広い範囲で起こりましたが、上ノ国や松前地方には及びませんでした。

  シャクシャインの戦い 〜 wikipedia



● 藩主の参詣

 藩政時代に入ってからも、上ノ国は先祖創業の地として「御旧国」「神の国」などと呼ばれ、聖地としての地位を保っておりました。

 1685年、8月25日。五代藩主・矩広(のりひろ・26)が、上ノ国へ参詣しました。
 小滝家も、上ノ国三社(砂館神社・館神八幡宮・夷王山神社)の修繕・清掃、神事の準備、接待の準備などなど、おおわらわとなったことでしょう。秀次は、このころすでに老年に入っていました。

  松前矩広 〜 wikipedia




小滝 為吉

    〜 守(かみ)に出世した、七代目

生年 : 不明
没年 : 享保年間? (1716 〜 1735)
通称 : 長門
官名 : 長門守 (ながと の かみ)


 七代・為吉も、京都に上り、吉田家の相伝を受けました。先代の官位は「丞 (じょう・三等官)」でしたが、為吉の代からは、さらに高位の「守 (かみ・一等官)」に昇進しています。



● 八幡宮の本殿、建替え

 1699年(元禄12)年、館神八幡宮の本殿が、新たに建築されました。この本殿が、今でも上ノ国八幡宮の内部に現存しています。北海道内では最古のものです。

  【北海道指定有形文化財】上ノ國八幡宮本殿 〜 上ノ国町
  道最古の本殿、1日限りの公開 〜 毎日新聞



● 空念

 越前国の僧侶・空念は諸国を巡礼した末、1704年3月、北海道に渡りました。6月、上ノ国に至り、館神八幡宮、毘沙門天王社、医王山社、上国寺に、それぞれ観音経一巻を奉納しました。

 この前々年には飢饉があり、二万余人に粥の炊き出しが行われました。 前年には大風・台風の被害がありました。庶民の暮らしは一方ならぬものがありました。
 先の円空もそうですが、この空念も全国を巡礼することによって、観音様の慈悲の心を広め、人心をやわらげ、また、天意によって自然を鎮めてもらおうと、世の安穏を願う、熱い魂の持ち主だったことでしょう。
 そうした巡礼僧たちのスピリットに直接触れて、小滝家の人々も魂をゆさぶられるものがあったことでしょう。



● 西宮社、神明社の創立

 1711(正徳1)年、原歌に、住吉三神をお祀りする、西宮社を創立しました。

 1713(正徳3)年、天照皇太神宮をお祀りする、神明社を創立しました。



● 藩主参詣

 1722年、5月25日、六代藩主・邦広(くにひろ・18)が上ノ国に参詣しました。
 この頃、為吉は老年に入っていたものと思われます。若い時に前代の藩主を迎えていますから、二度目の藩主参詣のお勤めでした。

 松前邦広 〜 wikipedia





 ■ 小滝 為信

    〜 二度の噴火を体験した、八代目

生年 : 不明
没年 : 不明
通称 : 長門
官名 : 長門守



● 奥尻島噴火

 六代藩主・邦広が参詣した2年後の、1724(享保9)年、奥尻島神威山が噴火し、降灰が数里に及びました。





● 大島爆発

 1741(寛保1)年、7月15日、大島が爆発し、15日16日と灰が降りました。19日には大津波が寄せました。対岸の根部田と熊石間では、死者1467人に及びました。被害は甚大で、家屋・倉庫の破壊は791棟、破船は1521艘でした。





● 藩主参詣

 1744年、6月、七代藩主・資広(すけひろ・19)が上ノ国に参詣しました。
 為信は、若い時に前代の藩主を迎えていますから、二度目の藩主参詣のお勤めでした。

 松前資広 〜 wikipedia



● 石崎八幡神社の修繕



 上ノ国南方にある石崎の、八幡神社を営繕した折の棟札が遺されています。この時、為信が神主を務めています。


石崎八幡神社・棟札  1766(明和3)年11月


奉建立八幡大神宮


天皇宝祚延長玉体平全

征夷大将軍武運長遠祈所


志州大守源章広武命延長守処

当州家内繁昌除災与楽


地頭松前木工広綏武運守護処


明和三丙戌 十一月吉辰日


謹言


諸願成就所

《神主》

小滝長門藤原為信


《願主》

村総中


《肝煎》

大谷与兵衛


《年寄》

七内

佐平治


《大工》

金之丞

五郎三郎


《木挽》

七兵衛



【年表】
西暦 和暦 できごと
1598 (慶長3) 大蔵ニシン伝説。
四代・秀海、卒。
五代・為定、若宮社創立。
1599 (慶長4) 慶広が大坂で徳川家康に会い、姓を松前に改めた。
1604 (慶長9) 1月、慶広が、国政のお墨付きをもらう。
11月、毘沙門堂、造り替え。
1610 (慶長15) 花山院少将・忠長が蝦夷流罪となり、3月、上ノ国に来村。
1618 (元和4) 宣教師デ・アンジェリスが松前に渡ったが、途中難航して上ノ国天河に上陸した。
(ヨーロッパ人最初の、本道渡航)
1640 (寛永17) 松前における切支丹門徒106人が斬首。
駒ヶ岳噴火。
1664 (寛文4) 5月、藩主・高広が国政の印伝馬の令書をもらい、帰国。
5月、毘沙門堂、造り替え。
1665 (寛文5) 福山秘府にいわく、「春彗星現れ、西部上ノ国太平山鳴動し、天河海口陸と成る。案ずるにこれ皆不祥の兆しなり。」と。
この頃、僧・円空、巡錫し、石崎・木ノ子・上ノ国・北村に自作の仏像を残した。
1666 (寛文6) 冬、飢饉。
1669 (寛文9) シャクシャインの戦い。
1680 (延宝8) 奥羽凶作、米の移入減じ、飢饉となる。
1681 (天和1) 天河の海口、陸と成る。(福山秘府)
毘沙門堂・造り替え。
この年、藩主・矩広が将軍に謁し、翌年、国政の朱印をもらって帰国。
1685 (貞享2) 藩主・矩広、上ノ国参詣。
1695 (元禄8) 奥羽凶作、米の移入減じ、飢饉となる。
1703 (元禄16) 15年秋から飢饉となり、16年春に至る。粥を施すこと二万余人。
7月、毘沙門堂、造り替え。
8月、9月大雨、大風被害多し。
1711 (正徳1) 西宮社(原歌)、創立。
1713 (正徳3) 神明社、創立。
1722 (享保7) 5月、藩主・邦広、上ノ国参詣。
1724 (享保9) 奥尻島・神威山噴火。降灰、数里に及ぶ。
1741 (寛保1) 7月15日、大島爆発し、15、16日降灰、19日大津波。
1744 (延享1) 6月、藩主・資広、上ノ国参詣。
1766 (明和3) 11月、石崎八幡神社、営繕。神主、八代・為信。


【参考文献】
『上ノ国村史』 (松崎岩穂・著)
『続・上ノ国村史』 (松崎岩穂・著)


【目次】
第一章 開祖・秀延
第二章 二代・快秀、三代・快山
第三章 四代・秀海
第四章 五代 〜 八代
第五章 九代 〜 十二代 (作成中)
第六章 十三代・禊 (作成中)
第七章 新しい時代へ (作成中)


上ノ国・小滝家について情報をお持ちの方、親族の方、ぜひこちらまでお気軽にご連絡ください。
お待ちしております。
fffth☆binzume.sakura.ne.jp(☆を@に変えてください)
小滝ダイゴロウ

HOMEにもどる