上ノ国は、鰊(ニシン)が群来する、たいへん豊かな漁場でもありました。
ニシンは春、産卵のために、磯辺に寄ってきます。 メスが産卵すると、オスが白子を産みます。 しばらくのうちに海上一面が白く染まり、
その時に網をさすと、魚は砕けたようになってことごとく網にかかるそうです。 これを「群来る」(くきる)といいました。 群来る時期は、きまって春分十日(新暦3月31日ごろ)から、50日ほど(5月なかば)だそうです。
ニシンが終わりかけの5月上旬から半ば(新暦)に、桜の季節がやってきます。
「桜が咲くと、人々は、もうニシンは来ないと悲しみ、花の咲くのが遅いと喜び、花が咲けば、もう咲いたかとねたみを込めていい騒ぎ、一向に花を楽しむ人もありません」
…とは、江戸時代の上国寺住職の、嘆きの言葉です。 ニシンの群来は、春を告げる風物詩であるとともに、この地方にとっては一年に一度の大きな稼ぎ時で、よその地方からもたくさんの労働者が群集し、それを目当てに商売人や遊興の人々も入り込み、例えるならそれは、活況もよおす数十日間にわたる大祭だったのです。

上ノ国八幡宮前の、海浜のようす
上国寺開基から40年が経った、 慶長3年(1598年)、ここに秀海という名の、70歳の老修験者がおりました。 「行法堅固の修験者」「すぐれた山伏」と、伝えられております。
海辺に庵を結んで、修行に励んでおりました。
この年は、ニシンが不漁で、もはや桜も散るというのに、いっこうにニシンの現れる気配がありません。 人々が嘆き悲しむのを見て、秀海法印は言いました。
「ニシンが来ないといって、本当にそのように困るなら、私が神様に祈って、ニシンをとらせましょう」
村の人々は驚いて、
「何をおっしゃいます。もう5月も半ば(旧暦:4月も半ば)を過ぎました。群来(くき)る時節ならこそ、群来もしましょう。50日あまりも、その時節が過ぎています。どんなに貴方のお祈りがすぐれているといっても、とてもご利益があろうなどとは思えません」
と、言いますと、秀海法印は微笑しながら、
「群来る時に群来たニシンなら、それは祈りの験(しる)しとは言わないものです。時節でない時に祈ってニシンが群来たら、それこそ本当のご利益というものでしょう。しかしこれは、やましい自分勝手な願いごとではありません。『ここで私の命と引き換えにしても、多くの人々を憐れと思し召し、お救いください』と誓って神に祈りましょう。さあ、あなたたちも、心をひとつにしてお祈りいたしましょう。きっと御徴(みしるし)のあることでしょう。もし私の祈りのしるしがあったその時は、獲れたニシンのなかから、何束かずつを私にください。私はそれを元手に、寺の修理をしたいのです」
と、言いました。 浦の人々はそれを聞いて、
「それはいかにもたやすいお願い事です。仰るとおりにいたしましょう」
と、約束したのでしたが、そのなかに、なんでも人の反対ばかりしたがる「ねじけ人」がいました。
男は、
「今を一体いつだと思ってるんだ。桜も散った、5月の末(旧暦:4月の末)だ。群来るはずの時節はもう60日も過ぎてしまったのに、どうしてどうして、腐れニシン一匹だって群来るものか、売僧(まいす)山伏の空祈りが何であろう。俺はちっとも面白くない。何のためにそんなことをしようというのであろう。片腹痛い、行者殿だ」
と、大口を開け、嘲り笑ってやみません。人々は諌めて、
「そのようなことは、決していうものではありません。天の恵み、神の力は計ることができないものです。今年このままニシンが群来なかったら、私たちは何を食べて命をつなぐというのです。まして親たちや妻子の嘆きをどうするのでしょう。さあ、私たちと一緒に祈りましょう」
と、人々が言うのに、ついに仲間にも入らず、世にも憎憎しげなことばかり言っては、人々の気を悪くしておりました。
秀海法印はただちに潔斎精進して、「わが祈りが成就せば、尾やひれの赤いニシンが来るであろう」 と預言しました。
浜辺に祭場を設け、四方に青木の枝に旗を流し、 五つの御幣を立て、鈴の音も高く、尊く打ち鳴らし、食物を断って夜となく昼となく 三日三晩、宗源神道の魚寄せの祈祷をつづけました。
秀海法印は、紙でニシンを作り、俵(たわら)でクジラを作って、これに祈りをこらし、海に入れました。すると、たちまちに俵のクジラは潮を吹き、紙のニシンも生きているように、海を遠く泳いで行ったのです。
すると6月6日、7日(旧暦:5月4日、5日)、 しかべという鳥が沖に集まり、かもめが海の面を一杯にふさぎ、クジラが大波を起こして、その巨体を現し潮を噴きあげる。これこそ、ニシンの群来る、いつもの前触れでした。
かくて、海上は一面に白みわたり、浦という浦は群来ないところもなく、例年を超える大漁となりました。 それも、尾やひれの赤いニシンばかり群来たのです。
「ああ、なんとありがたいお祈りだったことか!秀海法印は、そも神であろうか。かくまで尊いしるしを眼前に見させていただくとは」
と、多くの人々が寄り合い、喜び合う声は潮の湧くごとく、大評判となったのです。 春分十日を過ぎて、実に68日目の、奇跡の群来でした。
例の「ねじけ人」も大漁しましたが、人並みにはもちろんのこと、約束のお礼をすこしも出さなかったので、人々はこれを見て、嘲り、そしり、涙を流して、
「どうして早くお礼をしないのです。恐ろしいほどのお祈りのしるしを目の前に見ながら、どうして物を差し上げずにおられましょう。さあ早くお礼をなさい」
と、ひたすらに言いますと、彼の男は、
「今年は時期が遅れて、まだ海が若かったのだ。ニシンは時が来て自然に群来たのだ。それを生山伏の、なま祈りしたしるしだなど、そんなことがあるものか。礼をするいわれなど、露ほどもない」
と、言います。 秀海はその話を聞いて、非常に腹を立て、たちまち物争いとなりましたが、彼の男がなお、つっかかっていこうとするのを、浦人たちが止め、
「どうあろうとも、とにかくまあ、曲げてはやくニシンをお上げなさい」
と、色々なだめすかして、やっと何束という約束のニシンを贈らせましたので、秀海の心もだいぶ穏やかになりました。 しかし、
「あいつのようなろくでなしは、一束の数のほども怪しいものだ」
と、数えさせてみますと、果たしてそうです。これは、もう一度争いを起こして、秀海に腹を立てさせようと、いかにも悪いニシンばかりを拾い集めて、三つ四つ足らないようにして一束とし、争いの種を贈ったのでした。
秀海はいよいよ面白くなく、前にも勝る大争いとなりました。
秀海は、一束や二束のニシンが惜しかったのではありません。神様がニシンを授けてくれたことに感謝の心をもたない、ねじけ人のねじけた心が、どうしようもなく哀しかったのです。
ねじけ人は、人々の止めるのも耳に入れず、しまいには担ぎ棒をふりあげました。
「まちがいしなさんなよ」
と、秀海が言うか言わないかのうちに、男はそれをふりおろしました。
打たれどころが悪かったのでしょう、老いたる法印は、息も苦しく、倒れ伏してしまいましたが、そのまま息絶えたのでした。人々は大騒ぎしましたが、なんの甲斐もありません。
それから三、四日たって、このねじけ人も、にわかに病気になって死に、何日もたたないうちに、その妻や子までみな死に絶えてしまいました。
恐ろしい報いを眼前に見た人々は、法印の御霊(みたま)をニシン神として崇め、若宮社にお祀りしたのでした。
尾やひれの赤いニシンを、「五月(※)の赤ニシン」、「恵比寿ニシン」などと言うようになり、また、春のニシン漁業の祭りに旗鉾祭・柴おろし祭などといって神木を立てるのは、このことからはじまりました。
※ 旧暦5月 = 新暦6月
また、ねじけ人の霊が、罪のあがないのために捧げるのでしょうか、秀海の庵のあった場所に、いつも6月のころ、必ず二三匹のニシンが波に打ち上げられましたが、村の人はこれを「大蔵ニシン」(大蔵鰊)といって、この国の太守にも献上しました。
秀海法印の別名が「大蔵」であったので、大蔵ニシンというのです。
「ニシン守ろう大蔵さまは、七日七夜の沖あげさせて」
と、上ノ国の謡歌にも歌われた、この大蔵ニシン伝説は、松前諸伝説の中でも名高い伝説で、古い時代には、ニシン神の伝説中、第一に位するものでした。
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