第三章  四代・秀海



■ 秀海

    〜 神と祀られた、大蔵ニシン伝説の修験者

生年 : 1529年 (享禄2年)
没年 : 1598年 (慶長3年) 70歳
通称 : 大蔵(おおくら)


【伝説】
 上ノ国は、鰊(ニシン)が群来する、たいへん豊かな漁場でもありました。

 ニシンは春、産卵のために、磯辺に寄ってきます。 メスが産卵すると、オスが白子を産みます。 しばらくのうちに海上一面が白く染まり、 その時に網をさすと、魚は砕けたようになってことごとく網にかかるそうです。 これを「群来る」(くきる)といいました。 群来る時期は、きまって春分十日(新暦3月31日ごろ)から、50日ほど(5月なかば)だそうです。

 ニシンが終わりかけの5月上旬から半ば(新暦)に、桜の季節がやってきます。

「桜が咲くと、人々は、もうニシンは来ないと悲しみ、花の咲くのが遅いと喜び、花が咲けば、もう咲いたかとねたみを込めていい騒ぎ、一向に花を楽しむ人もありません」

 …とは、江戸時代の上国寺住職の、嘆きの言葉です。 ニシンの群来は、春を告げる風物詩であるとともに、この地方にとっては一年に一度の大きな稼ぎ時で、よその地方からもたくさんの労働者が群集し、それを目当てに商売人や遊興の人々も入り込み、例えるならそれは、活況もよおす数十日間にわたる大祭だったのです。


上ノ国八幡宮前の、海浜のようす


 上国寺開基から40年が経った、 慶長3年(1598年)、ここに秀海という名の、70歳の老修験者がおりました。 「行法堅固の修験者」「すぐれた山伏」と、伝えられております。 海辺に庵を結んで、修行に励んでおりました。

 この年は、ニシンが不漁で、もはや桜も散るというのに、いっこうにニシンの現れる気配がありません。 人々が嘆き悲しむのを見て、秀海法印は言いました。

「ニシンが来ないといって、本当にそのように困るなら、私が神様に祈って、ニシンをとらせましょう」

 村の人々は驚いて、

「何をおっしゃいます。もう5月も半ば(旧暦:4月も半ば)を過ぎました。群来(くき)る時節ならこそ、群来もしましょう。50日あまりも、その時節が過ぎています。どんなに貴方のお祈りがすぐれているといっても、とてもご利益があろうなどとは思えません」

 と、言いますと、秀海法印は微笑しながら、

「群来る時に群来たニシンなら、それは祈りの験(しる)しとは言わないものです。時節でない時に祈ってニシンが群来たら、それこそ本当のご利益というものでしょう。しかしこれは、やましい自分勝手な願いごとではありません。『ここで私の命と引き換えにしても、多くの人々を憐れと思し召し、お救いください』と誓って神に祈りましょう。さあ、あなたたちも、心をひとつにしてお祈りいたしましょう。きっと御徴(みしるし)のあることでしょう。もし私の祈りのしるしがあったその時は、獲れたニシンのなかから、何束かずつを私にください。私はそれを元手に、寺の修理をしたいのです」

 と、言いました。 浦の人々はそれを聞いて、

「それはいかにもたやすいお願い事です。仰るとおりにいたしましょう」

 と、約束したのでしたが、そのなかに、なんでも人の反対ばかりしたがる「ねじけ人」がいました。
 男は、

「今を一体いつだと思ってるんだ。桜も散った、5月の末(旧暦:4月の末)だ。群来るはずの時節はもう60日も過ぎてしまったのに、どうしてどうして、腐れニシン一匹だって群来るものか、売僧(まいす)山伏の空祈りが何であろう。俺はちっとも面白くない。何のためにそんなことをしようというのであろう。片腹痛い、行者殿だ」

 と、大口を開け、嘲り笑ってやみません。人々は諌めて、

「そのようなことは、決していうものではありません。天の恵み、神の力は計ることができないものです。今年このままニシンが群来なかったら、私たちは何を食べて命をつなぐというのです。まして親たちや妻子の嘆きをどうするのでしょう。さあ、私たちと一緒に祈りましょう」

 と、人々が言うのに、ついに仲間にも入らず、世にも憎憎しげなことばかり言っては、人々の気を悪くしておりました。


 秀海法印はただちに潔斎精進して、「わが祈りが成就せば、尾やひれの赤いニシンが来るであろう」 と預言しました。
 浜辺に祭場を設け、四方に青木の枝に旗を流し、 五つの御幣を立て、鈴の音も高く、尊く打ち鳴らし、食物を断って夜となく昼となく 三日三晩、宗源神道の魚寄せの祈祷をつづけました。
 秀海法印は、紙でニシンを作り、俵(たわら)でクジラを作って、これに祈りをこらし、海に入れました。すると、たちまちに俵のクジラは潮を吹き、紙のニシンも生きているように、海を遠く泳いで行ったのです。

 すると6月6日、7日(旧暦:5月4日、5日)、 しかべという鳥が沖に集まり、かもめが海の面を一杯にふさぎ、クジラが大波を起こして、その巨体を現し潮を噴きあげる。これこそ、ニシンの群来る、いつもの前触れでした。 かくて、海上は一面に白みわたり、浦という浦は群来ないところもなく、例年を超える大漁となりました。 それも、尾やひれの赤いニシンばかり群来たのです。

「ああ、なんとありがたいお祈りだったことか!秀海法印は、そも神であろうか。かくまで尊いしるしを眼前に見させていただくとは」

 と、多くの人々が寄り合い、喜び合う声は潮の湧くごとく、大評判となったのです。 春分十日を過ぎて、実に68日目の、奇跡の群来でした。



 例の「ねじけ人」も大漁しましたが、人並みにはもちろんのこと、約束のお礼をすこしも出さなかったので、人々はこれを見て、嘲り、そしり、涙を流して、

「どうして早くお礼をしないのです。恐ろしいほどのお祈りのしるしを目の前に見ながら、どうして物を差し上げずにおられましょう。さあ早くお礼をなさい」

 と、ひたすらに言いますと、彼の男は、

「今年は時期が遅れて、まだ海が若かったのだ。ニシンは時が来て自然に群来たのだ。それを生山伏の、なま祈りしたしるしだなど、そんなことがあるものか。礼をするいわれなど、露ほどもない」

 と、言います。 秀海はその話を聞いて、非常に腹を立て、たちまち物争いとなりましたが、彼の男がなお、つっかかっていこうとするのを、浦人たちが止め、

「どうあろうとも、とにかくまあ、曲げてはやくニシンをお上げなさい」

 と、色々なだめすかして、やっと何束という約束のニシンを贈らせましたので、秀海の心もだいぶ穏やかになりました。 しかし、

「あいつのようなろくでなしは、一束の数のほども怪しいものだ」

 と、数えさせてみますと、果たしてそうです。これは、もう一度争いを起こして、秀海に腹を立てさせようと、いかにも悪いニシンばかりを拾い集めて、三つ四つ足らないようにして一束とし、争いの種を贈ったのでした。 秀海はいよいよ面白くなく、前にも勝る大争いとなりました。
 秀海は、一束や二束のニシンが惜しかったのではありません。神様がニシンを授けてくれたことに感謝の心をもたない、ねじけ人のねじけた心が、どうしようもなく哀しかったのです。
 ねじけ人は、人々の止めるのも耳に入れず、しまいには担ぎ棒をふりあげました。

「まちがいしなさんなよ」

 と、秀海が言うか言わないかのうちに、男はそれをふりおろしました。
 打たれどころが悪かったのでしょう、老いたる法印は、息も苦しく、倒れ伏してしまいましたが、そのまま息絶えたのでした。人々は大騒ぎしましたが、なんの甲斐もありません。

 それから三、四日たって、このねじけ人も、にわかに病気になって死に、何日もたたないうちに、その妻や子までみな死に絶えてしまいました。 恐ろしい報いを眼前に見た人々は、法印の御霊(みたま)をニシン神として崇め、若宮社にお祀りしたのでした。



 尾やひれの赤いニシンを、「五月(※)の赤ニシン」、「恵比寿ニシン」などと言うようになり、また、春のニシン漁業の祭りに旗鉾祭・柴おろし祭などといって神木を立てるのは、このことからはじまりました。

※ 旧暦5月 = 新暦6月

 また、ねじけ人の霊が、罪のあがないのために捧げるのでしょうか、秀海の庵のあった場所に、いつも6月のころ、必ず二三匹のニシンが波に打ち上げられましたが、村の人はこれを「大蔵ニシン」(大蔵鰊)といって、この国の太守にも献上しました。 秀海法印の別名が「大蔵」であったので、大蔵ニシンというのです。

「ニシン守ろう大蔵さまは、七日七夜の沖あげさせて」

 と、上ノ国の謡歌にも歌われた、この大蔵ニシン伝説は、松前諸伝説の中でも名高い伝説で、古い時代には、ニシン神の伝説中、第一に位するものでした。



【歴史】
 小滝家四代・秀海は、タナケシの乱のあった1529年に生まれました。 おそらくは、勝山館で生まれたものと推測されます。

 
幼少期から、タナケシの乱、タリコナの乱、そして二十代では、基広の乱、南条広継の乱など、動乱を目の当たりにしてきました。

 三十代に入ると、夷王山神社の創始、上国寺の開基に関わりました。 以後、勝山館をおりて、上国寺を守りつづけましたが、 秀海は、上ノ国大間から、原歌・東風崎に及ぶ広大な地所を、蠣崎家から与えられています。 このことから、松前へ移った蠣崎家からは離れたものの、蠣崎家祖地である上ノ国を守る最高神官の地位は確保していたようです。

 1571(元亀2)年と、1582(天正10)年に、館神八幡宮の造り替えが行われています。

 大蔵ニシンの頃には、おそらく後継者の秀雄(しゅうゆう)に寺を任せていたのでしょう。自分は海沿いに庵を結んで、修行に明け暮れていたようです。



【年表】
西暦 和暦 できごと 秀海
1529 (享禄2) タナケシ、挙兵。上ノ国に迫るが、蠣崎義広に討たれる。
この年、秀海、生まれる。
1530 (享禄3) 8月8日、二代・快秀、卒。
1536 (天文5) タリコナ、挙兵。義広に討たれる。
1548 (天文17) 上ノ国守護、基広が、叛逆をくわだて、蠣崎季広に討たれる。
南条広継が、上ノ国守護となる。
20
1551 (天文20) 夷狄の商船往還の法度。 23
1552 (天文21) 南条広継の妻の陰謀が露見し、夫妻は自害した。 24
1558 (永禄1) この頃、新しく上国寺が開基。 32
1570 (元亀1) 三代・快山、卒。 42
1571 (元亀2) 5月21日、館神八幡宮、造り替え。 43
1582 (天正10) 9月3日、館神八幡宮、造り替え。 54
1590 (天正18) 慶広が上京して豊臣秀吉に会い、蝦夷嶋主として待遇されたので、蠣崎氏はこれから安東氏の隷下を脱して、全く独立した。 62
1594 (文禄3) 上ノ国に、山神社が創立された。 66
1598 (慶長3) 大蔵ニシン伝説。
秀海、卒。
上ノ国に、若宮社創立。
70


【参考文献】
『上ノ国村史』 (松崎岩穂・著)
『続・上ノ国村史』 (松崎岩穂・著)


【目次】
第一章 開祖・秀延
第二章 二代・快秀、三代・快山
第三章 四代・秀海
第四章 五代 〜 八代
第五章 九代 〜 十二代 (作成中)
第五章 十三代・禊 (作成中)
第六章 新しい時代へ (作成中)


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小滝ダイゴロウ

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