第ニ章  二代・快秀、三代・快山


■ 快秀

    〜 勝山館・百年の歴史とともに生きた、二代目

生年 : 不明
没年 : 1560年 (永禄3年)、8月8日卒
通称 :


 二代目・快秀、三代目・快山の時代は、まさに勝山館の時代でした。 快秀・快山は、館神八幡宮の別当として、また、神事仏事のアドバイザーとして、勝山館内に住居していたものと思われます。

 1494年、5月20日、武田信広が64歳で、病没します。人々はかれを、夷王山山頂に葬ります。快秀が、葬儀を執り行ったのでしょう。


勝山館から夷王山山頂を望む。左方の高みが、山頂。うっすらと鳥居が見える。


 信広の跡を継いだ、二代目・光広(39/蠣崎光広)は、上ノ国村史に、「よく民政に意を用いて蝦夷を懐柔し」とあるように、 勝山館にどっしりと腰をおろし、安定した政治を行ないました。北海道の他の諸館では、和人同士の抗争や、蝦夷の蜂起によって、動乱がつづいたのですが、ただ上ノ国・勝山館のみが、平穏を保っておりました。 この頃に、法源寺、浄願寺などの寺が上ノ国に開基したのは、 安定した上ノ国をめざして、和人が多く集まってきたからでしょう。

  1514年、光広(59)は、勝山館を出て、百八十隻の兵船を率いて、松前(徳山館)に入ります。 和人地の中心、松前を抑えて、光広は諸館統一を果たします。 これ以降、松前の地が蠣崎家(=武田家)の本拠となりましたが、 蠣崎家にとって、先祖の地としての上ノ国への崇敬は変わりませんでした。

 なお、上ノ国・勝山館は、この頃が最盛期と言われています。

 上ノ国では、光広が松前に去った後、光広の次男の高広(32)が領主となりました。高広も、よくこの地を治めましたが、 1521年、高広(39)が亡くなり、その子、13歳の基広(もとひろ)が領主の座についた頃から、 平和な上ノ国も雲行きが怪しくなりはじめます。



○ 蠣崎光広 〜 wikipedia

○ 法源寺 〜 北海道文化資源データベース



■ 快山

    〜 上国寺を新たに開基した、三代目

生年 : 不明
没年 : 1570(元亀1) 3月1日
通称 :


 1529年、アイヌの酋長・タナケシが、上ノ国に侵攻しました。 蠣崎の三代目・義広(51)が応戦。謀略と、抜きん出た射術によって、タナケシを仕留めました。 蠣崎家は、代を重ねても、武勇、果断の血が濁っていなかったのです。

 翌、1530(享禄3)年、8月8日、二代・快山が亡くなり、三代・快秀が後を継ぎました。
 (『上ノ国村史』では、「永禄三年八月八日」となっているのですが、小滝家の年齢関係を算出してみますと、『続・上ノ国村史』にある「享禄三年八月八日」のほうが現実味があり、「永禄」は「享禄」の誤りではないかと、私は考えています。)


 1536年、タナケシの娘聟、タリコナが、上ノ国に侵攻しようと、兵を集めました。義広(58)は、これにも謀略を使い、タリコナを討ちました。


 こうした両度の戦乱に、上ノ国の守護代官であった20代の基広も、兵を率いて戦いました。この人は、長ずるに従って、わがままなふるまいが多くあったそうです。1545年、当主の義広(67)が没すると、1548年、基広(40)は蠣崎宗家の乗っ取りを企てました。しかし事が発覚し、勝山館で討たれました。
 この基広には、布施新六という忠臣がおり、新六は主人亡き後も、悲しみ、誠心をもって冥福を祈ったということですから、基広には家臣に慕われる一面もありました。


 その後、上ノ国の守護代官は、南条広継が務めましたが、1550年、この人も宗家乗っ取りの疑いをかけられ、自ら命を断ちました。

【系図】


 同年、蠣崎の四代目・季広(すえひろ・44)は、アイヌの人々との間に、素晴らしい講和条約を結びました。 これが『夷狄の商船往還の法度』です。
 季広はアイヌの人々に多くの宝物を贈りました。 そして瀬棚のハシタインを上ノ国天の川地方に置いて、西蝦夷の酋長とし、 知内のチコモタインを東蝦夷の長としました。また、蝦夷地往来の商船についての法令を定め、諸国から来る商人に税金を出させ、その一部を割いて、両酋長の年俸としました。 両酋長は、蝦夷地交易と部族の統括にあたりました。
 これより後、西蝦夷地から来る蝦夷の商船は、ハシタインのいる天の川の沖に来ると必ず帆を下し、休んで一礼してから往来するようになりました。
 この英邁なる決断により、和人とアイヌ人との闘争は、一旦、終わりを告げ、長い平和の時期が訪れることとなったのです。上ノ国というフロンティアで、和人とアイヌ人双方に直接に関わって生活してきた快秀・快山らの仏法僧たちも、和人とアイヌの人々との和解の重要性を、藩主に口ぞえして、一役かったのかもしれません。



 こうして、時代は変わりました。

・蝦夷の人々との闘争が終わった。
・上ノ国守護となった親族が、二度にわたって宗家を乗っ取ろうとした。

 このふたつの理由から、松前の蠣崎宗家にとっての「勝山館の存在価値」が見直されました。 蝦夷の人々との戦いがないのならば、勝山館のような砦・要害は必要ありません。 また、勝山館の守護代官になった親族が、宗家乗っ取りや反逆を企てるならば、危険な存在になります。中央から目の届かない要害を親族に与えて、わざわざ反逆心を煽ってやる必要はありません。そこで、以後、上ノ国の守護代官に親族を任命することをやめました。 こうして、勝山館の時代は終わりました。 勝山館は「貴人の居住空間」から、「緊急時の砦」へと、存在意義が変わったのです。



 1558年、蠣崎季広(52)は、夷王山頂の初代・武田信広の墳墓に神社を建立しました。これが、夷王山神社です。快秀・快山・秀海の三代が、この開基に関わったものと思われます。 おそらくこのタイミングをもって、蠣崎家は勝山館から完全に引きあげたのでしょう。季広の意図としては、 「われら一族は、上ノ国・勝山館を離れます。しかし、家祖の偉業と苦労を、けして忘れません」……そういう意味での夷王山神社創建と考えられます。
 以後、蠣崎家の後嗣である松前藩主は、一代に一度、上ノ国を詣でることが通例となりました。また、毎年正月、藩主名代が上ノ国三社(砂館神社、館神八幡宮、夷王山神社)へ代参することになりました。

 上ノ国は、天の川のハシタインの集落を中心に栄えることになりました。 すると、これまで勝山館に住んでいた人々は、山をおりて、天の川に近い場所に住んだほうが、生活にも商売にも都合がよくなります。こうして小滝家三代目・快山も、勝山館を下り、勝山館への登り口の場所に、新たに上国寺を開基しました。

「快山法印の永禄の昔 開き給ひて」 (『蝦夷喧辞弁』 菅江真澄・寛政1年)
「開基 相訪ね候所 永禄中の由」 (『西蝦夷地日記』 田草川伝次郎・文化4年)

 ……とありますから、 おそらく夷王山神社建立の永禄年間に、快山の手によって新・上国寺は創立したと考えられます。
 初代・秀延の開いた旧・上国寺(洲崎の近く?)は、タナケシ・タリコナの両度の戦で失われたのではないかと、推測しています。

 1570年、3月1日、快山法師は後を、後継の秀海に託して、世を去ります。


■上国寺開創の記録
西暦
和暦
できごと 出典資料
1443
嘉吉3年
秀延、草創 上国寺の縁起
『北海道志』(明治17年刊)
1466
文正1年
上国寺、堂宇建立 『北海道志』
1558〜1560
永禄年間
快秀(快山)、開山 『蝦夷喧辞弁』 菅江真澄
『西蝦夷地日記』 田草川伝次郎
1643
寛永20年
浄国寺(上国寺)、建立 『福山秘府』
『寺社村々立年暦書留』 江良八幡宮所蔵

※真言宗から、浄土宗への改宗と関わりがあるものか?



 昭和30年12月、上国寺本堂の本格的な調査が行われました。 その調査によって建築様式から「桃山時代前後の創建」(1500年代後半)という鑑定結果が出され、 文献資料との整合性から、「上限を永禄年中、下限を寛永年中にとるべき」(1558-1645)という結論が出されています。

 『続・上ノ国村史』では上の鑑定結果を「穏やかな見解」とした上で、 「医王山の創建を永禄年間にとるものの多いことなどから、上国寺の創建も永禄年間とみ、八十年を経た寛永二十年を第一回の大修理、その後およそ百年の宝暦、明和にわたって 次の大修理が行われ、これらの時に、今見られる江戸時代風の彫刻や建築手法が入り、内陣も浄土風に改められたものと見ることができないだろうか」
 と、締めくくっています。

 いずれにせよ、上国寺本堂は稀にみる遺物で、「本堂の建築は、その様式手法上、松前の法源寺四脚門と並んで本道最古のものに属し、細部彫刻など簡潔で力強く古朴の味があり、道内では稀にみる古格を供えた建築」と評されています。





■勝山館のあるじの変遷
西暦
勝山館 (上ノ国)
徳山館 (松前)
1473ごろ
武田信広
1494〜
蠣崎光広
1514〜
蠣崎高広
1521〜
蠣崎基広
蠣崎義広
1548〜1551
南条広継
蠣崎季広
酒井七之助など
蠣崎慶広


○ 蠣崎基広 〜 wikipedia
○ 南条広継 〜 wikipedia

○ 夷狄の商船往還の法度 〜 wikipedia

○ 夷王山・夷王山墳墓群 〜 上ノ国町
○ 上国寺本堂 〜 上ノ国町


【年表】
西暦 和暦 できごと
1494 (明応3) 武田信広、卒。夷王山山頂に葬られる。
1514 (永正11) 3月、蠣崎光広、180隻の兵船を率いて、松前(徳山館)に移転。
1521 (大永1) 上ノ国守護、高広、卒。
その息子、基広が守護となる。
1529 (享禄2) タナケシ、挙兵。上ノ国に迫るが、蠣崎義広に討たれる。
1530 (享禄3) 8月8日、快秀・卒。
1536 (天文5) タリコナ、挙兵。義広に討たれる。
1545 (天文14) 義広(67)、卒。
1548 (天文17) 蠣崎季広(42)、上ノ国参詣。
上ノ国守護、基広(40)が、叛逆をくわだて、季広に討たれる。
南条広継が、上ノ国守護となる。
1549 (天文18) 毘沙門堂・新堂を造営。
1551 (天文20) 夷狄の商船往還の法度
1552 (天文21) 南条広継の妻の陰謀が露見し、夫妻は自害した。
1558 (永禄年間) この頃、新しく上国寺が開基。


【参考文献】
『上ノ国村史』 (松崎岩穂・著)
『続・上ノ国村史』 (松崎岩穂・著)


【目次】
第一章 開祖・秀延
第二章 二代・快秀、三代・快山
第三章 四代・秀海
第四章 五代 〜 八代
第五章 九代 〜 十二代 (作成中)
第六章 十三代・禊 (作成中)
第七章 新しい時代へ (作成中)


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小滝ダイゴロウ

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