1529年、アイヌの酋長・タナケシが、上ノ国に侵攻しました。 蠣崎の三代目・義広(51)が応戦。謀略と、抜きん出た射術によって、タナケシを仕留めました。
蠣崎家は、代を重ねても、武勇、果断の血が濁っていなかったのです。
翌、1530(享禄3)年、8月8日、二代・快山が亡くなり、三代・快秀が後を継ぎました。
(『上ノ国村史』では、「永禄三年八月八日」となっているのですが、小滝家の年齢関係を算出してみますと、『続・上ノ国村史』にある「享禄三年八月八日」のほうが現実味があり、「永禄」は「享禄」の誤りではないかと、私は考えています。)
1536年、タナケシの娘聟、タリコナが、上ノ国に侵攻しようと、兵を集めました。義広(58)は、これにも謀略を使い、タリコナを討ちました。
こうした両度の戦乱に、上ノ国の守護代官であった20代の基広も、兵を率いて戦いました。この人は、長ずるに従って、わがままなふるまいが多くあったそうです。1545年、当主の義広(67)が没すると、1548年、基広(40)は蠣崎宗家の乗っ取りを企てました。しかし事が発覚し、勝山館で討たれました。
この基広には、布施新六という忠臣がおり、新六は主人亡き後も、悲しみ、誠心をもって冥福を祈ったということですから、基広には家臣に慕われる一面もありました。
その後、上ノ国の守護代官は、南条広継が務めましたが、1550年、この人も宗家乗っ取りの疑いをかけられ、自ら命を断ちました。
【系図】
同年、蠣崎の四代目・季広(すえひろ・44)は、アイヌの人々との間に、素晴らしい講和条約を結びました。 これが『夷狄の商船往還の法度』です。
季広はアイヌの人々に多くの宝物を贈りました。 そして瀬棚のハシタインを上ノ国天の川地方に置いて、西蝦夷の酋長とし、 知内のチコモタインを東蝦夷の長としました。また、蝦夷地往来の商船についての法令を定め、諸国から来る商人に税金を出させ、その一部を割いて、両酋長の年俸としました。
両酋長は、蝦夷地交易と部族の統括にあたりました。
これより後、西蝦夷地から来る蝦夷の商船は、ハシタインのいる天の川の沖に来ると必ず帆を下し、休んで一礼してから往来するようになりました。
この英邁なる決断により、和人とアイヌ人との闘争は、一旦、終わりを告げ、長い平和の時期が訪れることとなったのです。上ノ国というフロンティアで、和人とアイヌ人双方に直接に関わって生活してきた快秀・快山らの仏法僧たちも、和人とアイヌの人々との和解の重要性を、藩主に口ぞえして、一役かったのかもしれません。
こうして、時代は変わりました。
・蝦夷の人々との闘争が終わった。
・上ノ国守護となった親族が、二度にわたって宗家を乗っ取ろうとした。
このふたつの理由から、松前の蠣崎宗家にとっての「勝山館の存在価値」が見直されました。 蝦夷の人々との戦いがないのならば、勝山館のような砦・要害は必要ありません。
また、勝山館の守護代官になった親族が、宗家乗っ取りや反逆を企てるならば、危険な存在になります。中央から目の届かない要害を親族に与えて、わざわざ反逆心を煽ってやる必要はありません。そこで、以後、上ノ国の守護代官に親族を任命することをやめました。
こうして、勝山館の時代は終わりました。 勝山館は「貴人の居住空間」から、「緊急時の砦」へと、存在意義が変わったのです。
1558年、蠣崎季広(52)は、夷王山頂の初代・武田信広の墳墓に神社を建立しました。これが、夷王山神社です。快秀・快山・秀海の三代が、この開基に関わったものと思われます。
おそらくこのタイミングをもって、蠣崎家は勝山館から完全に引きあげたのでしょう。季広の意図としては、 「われら一族は、上ノ国・勝山館を離れます。しかし、家祖の偉業と苦労を、けして忘れません」……そういう意味での夷王山神社創建と考えられます。
以後、蠣崎家の後嗣である松前藩主は、一代に一度、上ノ国を詣でることが通例となりました。また、毎年正月、藩主名代が上ノ国三社(砂館神社、館神八幡宮、夷王山神社)へ代参することになりました。
上ノ国は、天の川のハシタインの集落を中心に栄えることになりました。 すると、これまで勝山館に住んでいた人々は、山をおりて、天の川に近い場所に住んだほうが、生活にも商売にも都合がよくなります。こうして小滝家三代目・快山も、勝山館を下り、勝山館への登り口の場所に、新たに上国寺を開基しました。
「快山法印の永禄の昔 開き給ひて」 (『蝦夷喧辞弁』 菅江真澄・寛政1年)
「開基 相訪ね候所 永禄中の由」 (『西蝦夷地日記』 田草川伝次郎・文化4年)
……とありますから、 おそらく夷王山神社建立の永禄年間に、快山の手によって新・上国寺は創立したと考えられます。
初代・秀延の開いた旧・上国寺(洲崎の近く?)は、タナケシ・タリコナの両度の戦で失われたのではないかと、推測しています。
1570年、3月1日、快山法師は後を、後継の秀海に託して、世を去ります。
■上国寺開創の記録
西暦
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和暦
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できごと |
出典資料 |
1443
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嘉吉3年
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秀延、草創 |
上国寺の縁起
『北海道志』(明治17年刊) |
1466
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文正1年
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上国寺、堂宇建立 |
『北海道志』 |
1558〜1560
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永禄年間
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快秀(快山)、開山 |
『蝦夷喧辞弁』 菅江真澄
『西蝦夷地日記』 田草川伝次郎 |
1643
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寛永20年
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浄国寺(上国寺)、建立 |
『福山秘府』
『寺社村々立年暦書留』 江良八幡宮所蔵
※真言宗から、浄土宗への改宗と関わりがあるものか? |
昭和30年12月、上国寺本堂の本格的な調査が行われました。 その調査によって建築様式から「桃山時代前後の創建」(1500年代後半)という鑑定結果が出され、
文献資料との整合性から、「上限を永禄年中、下限を寛永年中にとるべき」(1558-1645)という結論が出されています。
『続・上ノ国村史』では上の鑑定結果を「穏やかな見解」とした上で、 「医王山の創建を永禄年間にとるものの多いことなどから、上国寺の創建も永禄年間とみ、八十年を経た寛永二十年を第一回の大修理、その後およそ百年の宝暦、明和にわたって
次の大修理が行われ、これらの時に、今見られる江戸時代風の彫刻や建築手法が入り、内陣も浄土風に改められたものと見ることができないだろうか」
と、締めくくっています。
いずれにせよ、上国寺本堂は稀にみる遺物で、「本堂の建築は、その様式手法上、松前の法源寺四脚門と並んで本道最古のものに属し、細部彫刻など簡潔で力強く古朴の味があり、道内では稀にみる古格を供えた建築」と評されています。
■勝山館のあるじの変遷
西暦
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勝山館 (上ノ国)
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徳山館 (松前)
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1473ごろ
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武田信広
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―
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1494〜
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蠣崎光広
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―
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1514〜
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蠣崎高広
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―
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1521〜
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蠣崎基広
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蠣崎義広
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1548〜1551
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南条広継
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蠣崎季広
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酒井七之助など
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蠣崎慶広
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○ 蠣崎基広 〜 wikipedia
○ 南条広継 〜 wikipedia
○ 夷狄の商船往還の法度 〜 wikipedia
○ 夷王山・夷王山墳墓群 〜 上ノ国町
○ 上国寺本堂 〜 上ノ国町
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