第一章  開祖・秀延


北海道・上ノ国(かみのくに)


北海道の長い冬を越えて、うれしい春のおとずれ。


エゾエンゴサクの花が、さまざまな色に野山を彩る。




夷王山からの眺望





■ 秀延

    〜 蝦夷地というフロンティアで、神仏の道を志した、小滝家初代

生年:不明
没年:不明
通称:円増院


【伝説】
 寛正3年(1462)の夏、洲崎館の西海の沖に、夜な夜な怪しい光を放つものがあらわれました。住民たちは驚き恐れ、これを領主・武田信広に訴えました。
 信広は奇異に思い、「知識の有りける」僧・秀延を呼びます。

 秀延は、「心に思うところがあります。私が自ら行って、見てきましょう」と、言いました。

 日が暮れて、秀延が舟を出すと、沖にかがやいていた光物は、舟の進みに合わせるかのように、波の上をこちらに近づいてきます。漁夫たちに指示して網を放ち、舟に引きあげ、からみついた海藻をかき払ってみれば、それは黄金の毘沙門天像でした。
 秀延は前の晩にふしぎな霊夢を授かっていたのですが、さてはこのことであったか、と合点したのでした。

 早速、尊像を館にはこび、秀延は事の次第を信広に報告しました。信広は尊像を礼拝し、
「我はこうして蝦夷が島(北海道)に渡ってきて、自らの運を開こうと努力してきた。ありがたくも天はそれを助けてくれた。
わが館のほとり近くに霊仏が出現するとは、今より後、子孫末代にいたるまで、武運長久をお守りくださる徴(しるし)であろう」
と歓喜して、御堂を建て、尊像を安置しました。

 そして秀延を、毘沙門堂の別当(べっとう=総責任者)に任命したのです。






洲崎館跡の近くのようす。往時の館のおもかげは残っていない。



洲崎館跡近くの浜から、海を望む。


○ 毘沙門天 〜 wikipedia




【歴史】
 小滝家初代、藤原秀延は、修験者でありました。 また、阿闍梨(あじゃり)と呼ばれる、真言僧でもありました。秀延による上国寺草創が、1443(嘉吉3)年と伝わっているのは、 それが特別な年であったために記されていたのでしょう。 すなわち、秀延が上ノ国に居を定めた年が1443だったのではないか、と、筆者は推測しております。

 上ノ国という土地は、本州から北進してきた和人たちの、最前線(フロンティア)の地でした。神道、仏教、修験道を修めていた秀延は今また、アイヌの信仰にも触れる機会を得たのでした。

 その後、秀延は、三人の武将の運命をまのあたりにしてゆきます。


■ 最初の武将、小山隆政 (おやま・たかまさ 1380-145)

 秀延が上国寺を草創した1443という年は、偶然にも、武将・小山隆政(64)が、蝦夷地入りした年です。 小山隆政は一族のもの及び従者8人を引き連れて花沢館(花見館)に入ったとのことで、 もしかしたら、秀延もその一党のひとりであったかもしれません。 可能性は次のみっつのどれかでしょう。

1、小山隆政の一族であった。(小山隆政の本姓は藤原ですが、秀延の本姓も藤原です)
2、小山隆政の同行者であった。
3、隆政の来道以前から上ノ国にいて、小山隆政に取り立てられた。

 小山隆政は幼少期から戦乱のなかで、危険と隣り合わせに過ごしてきました。 来道すると、64歳の老年ながら、鬼神のごとき戦いぶりをみせ、アイヌ人たちから畏れられ、カムイとして祀られました。 花沢館のほかに、江差の岩城にも館を構えます。


花沢館跡・現在のようす


花沢館より、洲崎方面の眺望


○ 小山隆政〜 wikipedia
○ 史跡上之国館跡 花沢館跡(国指定史跡) 〜 上ノ国町


■第二の武将、蠣崎季繁 (かきざき・すえしげ ?-1462)

 小山隆政も七十代に入り、その威勢が衰えたか、 上ノ国の地に、安東氏の勢力を受け入れざるを得なくなりました。安東氏は本州東北地方の権力者で、すでに小山隆政が蝦夷地入りした1443年から、松前や函館などの道南地方に割拠しておりました。
 その代官としてやってきたのが、蠣崎季繁でした。 蠣崎季繁は、若狭武田氏の出身で、 蝦夷地に渡って下之国安東政季の娘婿となり、上ノ国へ派遣されました。蠣崎季繁は花沢館に住んだということですから、 小山隆政は花沢館をかれに譲り、自らは岩城館に住んだのではないかと思われます。


岩城神社のあたりが、岩城館の跡と思われます。

○ 蠣崎季繁 〜 wikipedia



■第三の武将、武田信広 (1431-1494)

 1454年、ルーキーの登場です。24歳の武田信広が現れます。 後の、松前家の家祖です。

 若狭での縁を頼ってきたのでしょうか、信広は、蠣崎季繁のもとに身を寄せました。 信広は季繁の娘をめとって、蠣崎の後継者となります。

 その3年後、1457年、コシャマインの戦いという、全道を巻き込んだ、アイヌ人たちの大蜂起が起こります。上ノ国もまた、戦いの巷(ちまた)となりました。和人の将となった武田信広が、鬼神のごとき活躍をみせて、この大乱を鎮めます。 この時、三人の武将は力を合わせて戦ったものと思われますが、 小山隆政はすでに78歳で、かつての威神力は発揮できなかったものか、資料には現れません。しかしその経験と智謀をもって、武田信広の大活躍を、裏から演出していたのかもしれません。


○ コシャマインの戦い 〜 wikipedia


 1459年、その小山隆政が、80歳で没します。
 1462年には蠣崎季繁も亡くなり、上ノ国は武田信広ただひとりの支配地となりました。

 この頃には秀延は、信広に重用されています。 神事・仏事のアドバイザー的な地位に収まったようです。 1463年、【伝説】の項で見た、毘沙門堂の創建はこのころです。

 1466年、上国寺、堂宇建立と伝わりますが、これは資料的に、定かではありません。しかしこの時期、秀延と信広の関係が深まっていったことは事実でしょう。堂宇建立があったとすれば、その大旦那は、武田信広ということになります。中世の武将にとって、寺院建立は、己の威勢を示す意味もありました。
 「上国寺開基は、三代目・快山のころ」という説もあることから、もしかしたら、秀延が草創した上国寺は、現在地にはなかったのかもしれません。それは、こういうことです。下の地図を参照してください。
 1457年当時、蠣崎季繁が花沢館、武田信広が洲崎館(下の地図の、砂館神社のあたり)にいました。そして、秀延は洲崎の毘沙門堂の別当を任されました。ということは、秀延は、洲崎や花沢に近い場所に住んでいたと考えるのが、自然だからです。
 実際、洲崎神社のあたりからは、1300年代・1400年代の遺物(陶磁器など)が多く出ており、そのあたりに権力者や人々が集住していた、という調査結果もでています。つまり三人の武将が来る以前から、洲崎は人々が集まる居住地であったということです (その居住地は10世紀にまで遡ることがわかっています)。そうしますと、秀延の上国寺は洲崎の近くにあり、 快山の上国寺開基は、現在地での開基を示しているというふうにも考えられます。
 (快山の上国寺開基については、勝山館の衰退が影響しているものと考えられますが、このことについては、快山の項で、あらためて触れたいと思います。)


○ 【重要文化財】上國寺本堂 〜 上ノ国町

○ 史跡上之国館跡 洲崎館跡(国指定史跡)
○ 砂館神社 〜 文化遺産オンライン


 1473年、夷王山の山腹に、大規模な城館が造られます。これが勝山館です。
 信広は洲崎館から勝山館に移ります。

 勝山館跡は現在、大規模な遺跡の整備が進み、はっきりとしたイメージをふくらますことができる、とても魅力的な中世館の遺跡となっています。







客殿からは、美しい風景を一望できるようになっていた。


馬屋の跡


山腹の墳墓群は120ほどあり、和人とアイヌ人の墓が混交していた。
 勝山館では、両者が互いの文化様式を尊重しながら、ともに暮らしていたことがわかる。


 この時、館の一番高い場所に、館の守り神として館神八幡宮が創建されましたが、これは、洲崎館にも鎮座した館神八幡宮が、信広の勝山館移転とともに遷座したと見たほうがよいのでしょう。
 この館神八幡宮が、現在の上ノ国八幡宮になります(鎮座地は、明治になって、山の下に移されました)。
 秀延はその社務を司りました。 以降、明治初年に至るまで、小滝家は、上ノ国における神職の地位を受け継ぐことになったのです。


館跡より、夷王山頂をのぞむ

○ 武田信広 〜 wikipedia
○ 史跡上之国館跡 勝山館跡(国指定史跡) 〜 上ノ国町
○ 【北海道指定有形文化財】上ノ國八幡宮本殿 〜 上ノ国町


【年表】
西暦 和暦 できごと
1443 (嘉吉3) 4月。小山隆政、蝦夷地へ来る。
秀延、上国寺草創。
1454 (享徳3) これ以前に、蠣崎季繁、蝦夷地へ来る。
武田信広、蝦夷地へ来る。
1457 (長禄1) 5月。コシャマインの戦い。
8月。武田信広、洲崎館を建造。
1459 (長禄3) 小山隆政、没。
1462 (寛正3) 蠣崎季繁、没。
夏。秀延、洲崎館・毘沙門堂の別当就任。
1466 (文正1) 上国寺、堂宇建立。(『北海道志』)
1473 (文明5) 武田信広、このころ、洲崎館から勝山館へ移転。
館神八幡宮、創建。


【参考文献】
『上ノ国村史』 (松崎岩穂・著)
『続・上ノ国村史』 (松崎岩穂・著)


【目次】
第一章 開祖・秀延
第二章 二代・快秀、三代・快山
第三章 四代・秀海
第四章 五代 〜 十二代
第五章 九代 〜 十三代 (作成中)
第六章 十三代・禊 (作成中)
第七章 新しい時代へ (作成中)


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小滝ダイゴロウ

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