唯心論ノススメ

  〜 日本人と和の精神、投票率や政治意識の低さ、などについて、わかりやすく哲学します


1、「和の精神」
2、唯物論の社会を、うまく機能させるには?
3、雰囲気の大切さ
4、和の風土
5、唯心論をとりもどす
6、むすび

補説1、明治維新前の世界は、唯心論の世界であったか?
補説2、科学的な思考の重要性
補説3、短歌・俳句



唯心論ノススメ


1、「和の精神」

 日本人にとって「和の精神」はとても重要です。
 ……このような書き出しに、反対する人はいないでしょう。 これまで歴史を好んで学んだ私は、 日本人が長い歴史を通して、和の精神を培ってきたものと信じております。 しかし、いまやこの「和の精神」が、時代に合わず、むしろかえって有害な影響を与えていると言ったら、 皆様はどう思われるでしょうか。


 日本語は、他の言語に比べ、曖昧な表現が多いと言われます。 日本人はわざと曖昧な表現をすることによって、他人との衝突を避けることを選んできた、といえます。
 たとえば「怒る」という言葉を使わずに、「プンプンしてる」と言ったりします。 怒ってる相手に、「そんなに怒らないで」と、言うよりも、「そんなにプンプンしないで」といったほうが、 表現がやわらかくなり、場の空気がやわらぐ場合があります。 このような場の空気をなごませる微細な表現こそが、日本語の真髄かもしれません。 逆に、欧米では、「そんなに怒って」と、ズバリと言うようです。
 このように、和の精神を大切にする日本人は、 いつも場の空気を見て発言する、という精神態度が身についています。 逆に欧米では、周囲を気にすることなく、しっかりと自分の意見を主張する、という精神態度が身についています。 そうした各々の精神態度が、すでに言語のレベルで表れている、ということです。


 明治維新以降、 日本社会はがむしゃらに欧米の文化を取り入れてきました。 その経過のなかで、日本人の心になにが起こったのでしょうか? それは唯心論から、唯物論への、大きな転換です。
 唯心論とは、人には心がある、物にも心がある、木にも、動物にも、心がある。 ごく簡単に言えば、それが唯心論です。
 反対に、唯物論とは、ごく簡単に言えば「科学」のことで、すべては物質から成り立っている、 と考える思考です。 唯物論では、人さえも物質とみなします。 哲学を深く勉強していくと、唯物論もまた、仮説(フィクション)にすぎないということがわかるのですが、 それはまた別の機会に書きましょう。
 ともかくも、日本人は明治維新後、欧米にならって、唯心論から唯物論への思考転換をしてしまいました。 心について考えることをやめ、すべてを物質として捉えることにしたのです。
 その結果、どうなったでしょうか?
 たくさんの戦争が起こりました。 日清戦争、日露戦争、中国・ロシアへの進出、太平洋戦争、すべてが悲惨な戦争です。
 「欧米列強に飲み込まれないためには、 それしか道はなかったんだ」という人がありますが、私はそうは思いません。 日本人の本来もっていた、志、賢さ、勤勉さがあれば、 戦争という道をとらずとも、必ず自立して繁栄できたものと信じております。
 たくさんの戦争、そして、戦後の混乱、経済発展が引き起こす公害、国土の汚染、 これらはすべて、唯物論からもたらされたものです。 他者のなかに心をみない、相手のなかに心をみない、自然のなかに心をみない、 心を無視することによって、現実は操作しやすくなります。 これから攻め入ろうとする相手の国の人々が、自分と同じような心をもっていると知っていたら、攻撃はできません。 木にも、水にも、心があるんだ、などと考えては、国土の開発はできません。 そのような他者の「心」を無視して、唯物論の道を邁進してきたのが、現在の日本です。


 しかし、日本人の根本精神は、「和の精神」であったはずです。 このことは、どのように唯物論や唯心論と関わってくるのでしょうか?
 私はこう考えています。
 「唯物論」+「和の精神」は最悪の組み合わせ、なのだと。
 「和の精神」は、「唯心論」と組み合せてこそ、力を発揮するものでした。
 唯心論では、すべての他者に自分と同じような心があると考え、その心を思いやることこそを第一として考えます。 唯心論の世界で育つということは、毎日が心のトレーニングです。 草にも心がある、虫にも心がある、空にも、山にも。道端のお地蔵様にも、神様にも仏様にも、心がある。 それではいったい、草は何を考えているんだろう? 山は何を考えているんだろう? お地蔵様は? 仏様は? そうして唯心論のなかで子供が育ちますと、 他者のなかに、すすんで心を見る子供になります。 他者の心を推測する技術、他者の心を思い描く技術が鍛えられます。 そして自然な形で、相手の心を汲み取りながらも、自分の望みを叶える技術が鍛えられます。 それが、冒頭でも申しましたとおり、 日本語の、やわらかい言葉遣い、思いやりのある言葉遣いの伝統を生み出してきました。 唯心論の世界では、ただそこに生きているだけで、心のトレーニングができるわけです。


 こうして、他者のなかに心をありありと見、そしてその心の世界で培われた様々な心の技術(たとえば、ニュアンスを用いてやわらかくしゃべる、などの知恵)を駆使することによって、「和の精神」とは、至高の精神となりえたのでした。 しかしその「唯心論」という土台が崩れ去った時、なにが起こったでしょう?
 「和の精神」は、人の顔色を伺うだけの、浅薄な方法となってしまいました。
 唯物論では心を見ませんから、草も木も、動物も人間も、すべてが物です。 唯物論の世界で育つ子供は、極端な場合には、他者のなかに心を推測する能力が発達しません。 他者の心が推測できない分、自分の心が不安や恐怖、猜疑心に満ちあふれます。 ましてや、他者の心を汲み取りながら、自分の望みを叶えるというような、高度な「心の技術」にまで達することはできません。 自然のたくさんある場所へ行っても、「なんにもないところだな」と言い、そこに無頓着にゴミを捨てます。 多種多様の草が生き、樹木が生き、花を咲かせているにも関わらず、です。
 そうして「心」がわからない人間、唯物論のなかで生きている人間に、和の精神が加わると、いったいどうなるでしょうか?
 「唯物論」+「和の精神」では、こうなります。

 大勢の顔色を見て、自分の行動を決める。
 自分の考えていることを、あからさまに主張しない。
 出る杭を打つ。
 打たれる杭にならないようにする。
 付和雷同する。

 ……これが唯物論の時代の、新しき「和の精神」、ということになります。 「悪しき、和の精神」といってもよいでしょう。
 このような人々が集まれば、政治は衆愚政治となり、 多いが勝ちで、マイノリティ(少数派)を尊重しない、誤った民主主義に陥ります。 実際、近代の人々が数多の悲惨な戦争を止めることができなかった原因も、 現代の人々が環境破壊を止められない原因も、ここにあるのではないでしょうか。

(つづく)






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2、唯物論の社会を、うまく機能させるには?

 唯物論(科学)が欧米から来たのなら、欧米にこそ、唯物論の社会をうまく機能させる技術があるのではないでしょうか?

 一般に、欧米人は日本人のように、まず全体の空気を読む、というようなことはしません。自分の主義主張を堂々と述べます。これは、教育にも一因があると思いますが、すでに言語の段階で、物事を論理的に、はっきりと言う精神態度が鍛えられているのだと思います。
 欧米の人々は、議論に長けています。感情を論理から切り離し、より高い結論をめざしながら、相手と論理を交わすことが得意です。しかし、日本人は一般的に、議論が苦手です。
 たいていの日本人は、論理から感情を切り離すことができません。ですから議論になると、自分の全存在をかけての感情的なケンカになってしまいます。ケンカになるよりは、議論をしないほうがいい……日本人は和の精神ですから、そういう結論に達します。
 これが政治に反映されると、投票率が低くなり、政治参加の意識がひくくなる、というわけです。

 これはひとつには教育の問題です。感情を切り離して他人と議論をする技術や空気感を、幼い頃から培うべきです。それは、現在の日本の教育の主流である暗記メインの受験勉強よりも、格段に大切なことだと思います。 政治そのものが欧米の形を倣っているわけですから、欧米から「議論」の方法を技術として学ばなければ、片手落ちということになります。


 一方で、唯心論の立場から申しますと、マスコミなどのメディアに大きな問題があるように感じます。
 たとえば、私が新聞社から取材を受けた時に、私は「魂」という言葉を何度も使ったのですが、実際にできた記事を見てみると、「魂」という言葉はひとつも見当たりませんでした。唯心論的な「魂」という言葉は、新聞に載せるには不適切だということでしょう。

 また、公共放送などでは、「お金」を「金」、「お客さん」を「客」と言います。私はこれを聞いて、非常に品がないと感じてしまいます。唯物論的には、「金」「客」でいいのですが、実際の社会で「金」「客」という言い方をすれば、それは心無い言い方となります。公共放送では、人の心よりも、唯物論のほうが常識として尊重されているのです。

 こんな具合に、日本のメディアは唯心論を避け、唯物論を常識として扱っています。それゆえに、メディアに触れる人々も、唯物論が常識だと刷り込まれます。大人というのは、クールに唯物論に染まった人間のことだと刷り込まれます。
 しかし、唯物論とは実際には、単なる仮説にすぎないのです。それは世界の本質を解き明かす真理ではなく、人間が世界を扱いやすいようにするための、単なる人間中心的な「解釈」にすぎません。唯物論を世界の真理だと思い込めば、人間は「心」がわからなくなります。 そしてメディアがそのことを理解しなければ、唯物論的世界観が、つまり他者の「心」がわからない社会が、日本じゅうにさらに深く根付いてゆくことになるでしょう。

(つづく)






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3、雰囲気の大切さ

 政治に関するテレビ番組などを見ていると、 不安や恐怖を煽ることや、あられもなく言い争うことで、人々を政治に参画させようとする番組が多いようです。 しかし、そのやり方はかえって逆効果になるでしょう。
 なぜなら、日本人の国民性は、これまでにも見てきたとおり、 場の空気を見ることを先とするからです。 人々はスピーカー(話者)のもつ攻撃的な雰囲気、不安や恐れを敏に感じ取り、自分はそこには近づきたくない、 と思うでしょう。


 江戸時代以前の日本の偉大なるマスター(宗教指導者)たちはそのことをよく理解していて、 彼らが行なったのは、言葉による教導ではなく、 ただ雰囲気によって、人々を引きつけるということでした。 その雰囲気とは、とってつけた見せかけの雰囲気ではなく、自分の人生をかけて磨き抜かれた雰囲気のことです。

 以前、高野山のとあるお寺に電話をかけさせてもらった時、 電話に出られた方が、おそらく高徳の僧侶であったのでしょう。 その方に直接お会いしたことはなく、お名前も存じあげないのですが、 言語は明快、論理も明快、そして、心配りと人情の行き届いた話しぶり。 ただ電話を通して会話させてもらっているだけで、こちらの背筋が自然と真っ直ぐに伸び、 「畏れ入りました」と頭をさげたくなるような気持ちが湧きあがってきました。 その方はおそらく、人生修行、仏道修行によって、そうした深い雰囲気を身につけられたことと思います。
 そこまでの深い雰囲気でなくとも、 和の雰囲気、愛情ある雰囲気、落ち着いた雰囲気があれば、 そこに語られる言葉がなんであれ、日本の人々は耳を傾けるものと思います。
 その意味で、政治を広めるのに成功していると思うのは、たとえば、池上彰氏です。 けして居丈高にならない落ち着いた雰囲気で、わかりやすく人々に政治を教えてくれる。 そういう人こそ、日本の人々に政治を広め、投票率をあげる可能性のある人だと思います。


 言葉のみによって相手を説き伏せようとすることは、一種、唯物論的なところがあります。 そこには論理や文法によって相手を変えられる、という、ある種の自己中心的な錯誤が潜んでいます。 人間はそれ以前に、情動を共有する動物で、 攻撃的な姿勢で平和を語っても、平和への意思は伝わらず、 かえって攻撃的な雰囲気、恐れ、不安が伝播することになります。 そうした恐れや不安が、さらに世の中の人々を息苦しく、懐疑的にします。
 平和な世の中をもたらしたいならば、平和な空気を醸成することも大切で、 それは言葉によって伝わるものではなく、ただ雰囲気によって伝播するものなのです。 一般的に、一人の政治家よりも、一人のアーティストのほうが人々の心に訴えかけることができるのは、そのためです。

(つづく)






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4、和の風土


 日本人にとって「和の精神」は、おそらく想像以上に抜きがたいものです。 なぜならそれは、日本人自身が選択した、というよりは、 日本の風土によって、自然的に培われたものと見たほうがよいからです。

 日本の動物を外国の同種の動物と比べれば、みな、ややデフォルメされたようにかわいく、小さくなっています。日本原産のウマである木曽馬と、ヨーロッパのサラブレッドとを比較してみましょう。

平均体高 平均体重 原産地
木曽馬 136 cm 350 〜 420 kg 日本
サラブレッド 160 〜 170 cm 400 〜 500 kg ヨーロッパ


 その体格差は明らかです。あるいは、クマはどうでしょうか?


平均体高(オス) 平均体重(オス) 生息地域
ツキノワグマ 1.2 〜 1.8 m 50 〜 120 kg 日本、本州
エゾヒグマ 1.9 〜 2.3 m 120 〜 250 kg 日本、北海道
ヒグマ 2.5 〜 3 m 250 〜 500 kg 欧米北方、アジア北方
ホッキョクグマ 2 〜 2.5 m 400 〜 600 kg 欧米最北方、アジア最北方、北極圏


 日本最大の大型獣であるクマでさえ、諸大陸のクマと比べれば、大人と子供ほどの差があります。
 ついでに、ヒトも見ておきましょう。


平均身長 平均体重
日本人女性 154.2 cm 53kg
アメリカ人女性 161.8 cm 74kg
日本人男性 167.3 cm 64 kg
アメリカ人男性 175.7 cm 87 kg


 一般的な日本人が小柄であることは、ほぼ自明なことで、世界で活躍するアスリートには、この体格差が多くの場合、壁となってきます。

 このように、日本の動物は外国の動物と比べて小柄で、それに比例するように気質のほうも、比較的おだやかなものになっているようです。



 さて、次は植物を見てみましょう。日本原産の花はどれも、大陸の植物と比べ、色が淡く、やわらかなパステルカラーです。

 たとえば中国原産である「ハクモクレン」の花は、全盛期には、ほとんど蛍光色かと思えるような、光味を帯びた白色です。これに対して、同じ種である日本原産の「コブシ」は、落ち着いた、清楚な白色です。
 同じ種を、北アメリカに見てみましょう。「タイサンボク」という花があります。この花は比較的巨大で、非常に遠い範囲にまで香りを飛ばします。まるで自己主張の強い欧米の方々を思わせるような、強さをもっています。これらはすべて、マグノリアと呼ばれる同じ種です。

○ コブシ 〜 季節の花300
○ ハクモクレン 〜 季節の花300
○ タイサンボク 〜 季節の花300



 あるいは、レンギョウという花を見てみましょう。こちらの「レンギョウ5兄弟」という、レンギョウについて素晴らしくよくまとめてくださっている外部のページをご覧いただきたいのですが、日本産のヤマトレンギョウの色の淡さに注目してみてください。この淡さこそ、日本の花に特徴的なものです。


 もっとわかりやすく極端な例をあげると、日本の代表的な花といえば「ヤマトナデシコ」……「ナデシコ」でしょう。ナデシコは、大抵は、品のある淡い紫色をしています。外国に目を向けて極端な例を取ると、同じナデシコ目(もく)のなかに南アフリカ原産の「マツバギク」という花があります。これは日本でも人気の花で、私の住む名古屋では街路の植え込みなどにもよく見られる花なのですが、ほとんど「メタリック」と言っていいほどの、金属質のきらめき、強い輝きを放つ、紫色をしています。

○ ナデシコ 〜 季節の花300
○ マツバギク 〜 季節の花300


 このように、日本に自生する花は大抵は、落ちついた淡い色をしており、比較的小ぶりです。みなさまご存知の、桜の花(ソメイヨシノ)の、ほのかにくすんだピンク色を思い出していただけば、やはりそれは日本を代表するにふさわしい花だと、改めて思われることでしょう。


 こうして日本の小柄な動物や、淡い色のやさしい花々を見てきますと、日本の動物や植物の「和」の側面、そして日本人の「和」の側面を引き出しているのは、気候や地味、雨風、光の具合、四季、山海などの日本の自然だと考えられるのです。日本の自然が「小さく、淡く、おだやかな」方向へ、日本に生きる動植物たちを導いているように感じるのです。 ですから、その表れのひとつである「和の精神」は、どんなに矯正しても、矯正しがたいものだと思うのです。

 そう考えれば、日本人に欧米流の議論を学ばせるよりは、 唯心論を取り戻すことのほうが、私には近道に思えます。 唯物論を絶対視するのをやめ、唯心論を古い、子供っぽいなどと侮(あなど)るのをやめ、 自信をもって、唯心論は日本の伝統(トラディショナル)なのだ、と、宣言することが重要です。

 ゆるキャラの全盛に見られるように、今や、日本人の心は「唯心論」を希求しています。 ゆるキャラとは、かつての日本人が普通に見ていた、「心ある人間以外の存在」への憧憬です。 今、自然のなかに心を見出せなくなってしまった日本人の乾きが、日本人にゆるキャラを求めさせているのです。


 他者に心を見ないことから、犯罪が起こります。 他者を物と見ることによって、いじめや殺人が起きます。 女性を物と見ることによって、性犯罪が起こります。相手も自分と同じように、笑い、悲しみ、苦しむ、心ある人間だということが、わかりにくくなっているのです。これが唯物論の社会です。

 ですからもう一度、日本人は唯心論を取り戻すべきだと、私は思うのです。
 唯物論(科学)とはなんなのか、唯心論とはなんなのかを、 もう一度、社会全体が哲学的に見直し(……科学的に、ではなく、哲学的に見直し)、 きらびやかな外面ではなく、他者の内面にある「心」をこそ大事にする雰囲気が醸成されればされるほど、 自然と、人々は政治に参画し、投票率もあがるでしょう。

(つづく)






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5、唯心論を、とりもどす

 前章では、日本の風土が、植物や動物などの生命の方向を導いているのだというお話をしました。 「より小さく、より淡く、よりおだやかに」……そのように、日本の風土は、 人間を含めた日本の生命たちに語りかけているのです。
 ところがこの声に逆行する形で、唯物論社会は、「もっと大きく! もっと濃く! もっとアグレッシブに!」と、自然の声とはまったく逆の方向へと人々を煽動しています。 このふたつの声の真ん中に立たされ、引き裂かれたような状態に陥っているところに、日本人の悲劇性があります。

 想像してみてください。 自然からの「より小さく、より淡く、よりおだやかに」という声を受けて、穏やかさを愛し、平和への心を胸に秘めたたくさんの一般の日本人たちが、 「もっと大きく! もっと濃く! もっとアグレッシブに!」という方向性をめざす、唯物論的な政府の命令でやむなく戦争へ、人を殺す為に、あるいは自分が殺される為に、 ほんとうにたくさんの善良な人々が、そのような恐ろしい地獄へと駆りだされていったのです。 これを悲劇といわずして、なにを悲劇というのでしょうか。

 たとえば、現代の食糧問題はどうでしょうか。日本人のひとりひとりは、「もったいない」精神や「食べ物への感謝の心」の大切さを重々承知しているにも関わらず、社会全体ともなれば、和の精神が悪しき方向へと働きます。
 世界には十億人もの飢餓に苦しむ人がいると言われますが、世界中のボランティア機関が供給できる食糧の、4倍もの量の食糧を日本は捨てているのが現状です。多くの食糧を世界から輸入し、その多くを食べずに廃棄しているのです。「もっと大きく! もっと濃く! もっとアグレッシブに!」という方向性に乗って進む唯物論社会のアンバランスさが、この一事にも表れています。

 自然が呼びかける声と、唯物論社会が呼びかける声との分裂は、戦争や食糧のことばかりでなく、経済優先による自然破壊や、心の問題など、現代社会のいたるところに表れているのです。



 さて、こうして見て来ますと、「唯心論」的世界観は、日本のさまざまな社会問題を解決するオールマイティの切り札だと改めて思います。 「唯物論」にこだわる必要は、ないではありませんか。 それは真理ではなく、人間が世界を操りやすいようにするための仮説だからです。 「唯物論」では、欧米の二番煎じになるだけで、和の精神をもつ日本人にとっては、特に害毒となります。
 唯心論、と、むずかしく考えなくても、 木にも心があるんだね、水にも心があるんだね、動物にも心があるんだね、そういうことで、いいわけです。

 たとえ唯物論が主導する社会に生まれ育ったわれわれだとしても、 唯心論的な文化の潮流は流れつづけていますから、その恩恵は確実に受けています。 ですから、他者の心を思い描き、調和をもとめて知恵を駆使すれば、真の意味での「和の精神」は発揮されます。 むしろ欧米人よりも、簡単に発揮できうるでしょう。
 なぜならそれは、先祖代々の努力によって受け継がれてきた無意識の遺産であり、 同時に、日本の自然が、日本人に与えてくれる先天的な能力だからです。 日本人の誰でもが発揮することができる、この素晴らしい能力(ギフト)を、使わない手はないのです。


 「唯心論ノススメ」と申しましても、明日から声高々に「唯心論」の声を張りあげよう、と、そういうのではありません。街宣車に乗って「唯心論!唯心論!」と、がなりたてようというのではありません。それこそ、日本人は和の精神ですから、そんなやり方は好まないでしょう。
 これは、各自が心のなかで、こっそりとやればよい話なのです。しかしその際に、 「これは唯物論的、これは唯心論的」と、現実に出会うものを仕分けてみていただきたいのです。
 たとえば、映画や小説などを鑑賞する際、あるいは、人の発言について考える際などに、「これは物を大事にしている、これは心のほうを大事にしている」といった感じです。 あるいは、「こちらは見た目を大事にしている、こちらは内面を大事にしている」でも、いいでしょう。 同じ作品のなかにも、この部分は唯物論的、この部分は唯心論的、というように混合しているかもしれません。
 そうして両者を仕分けた上で、唯心論的なものに、すこしだけ加担してあげてください。 都市開発にのみこまれてゆく緑と同じように、今や唯心論は肩身が狭く、片隅に追いやられているのですから。

 すると、どうなるか? あなたの心は、唯心論の水を吸い、すくすくと伸び、花を咲かせ、実を実らせます。確実に、心が豊かになります。なぜなら唯心論とは、心が生育するにふさわしい世界なのですから。

 そうして一人ひとりが自分自身の心を豊かにしていけば、心豊かな社会がやってくるのは当然です。時間はかかりますが、黒から白に、突然に社会を変革することは、大抵の場合できません。一歩ずつ、が大切で、それがたとえ小さな「一歩」に見えたとしても、限られた短い時間を生きる私たちにとっては、とても大きな、意味のある一歩なのです。



■ むすび

 最後に、これまでの話を、まとめます。

 第一章では、日本人には「和の精神」が言語のレベルで働いているという話をきっかけに、「和の精神」が唯物論と組み合わされば、悪しき衆愚政治を生み出す、というお話をしました。

 第二章では、現代の日本社会をよりよくするためには、唯物論の面からは、感情を切り離して議論をする技術と空気感の必要性を述べました。唯心論の面からは、唯物論を常識とするメディアの問題を指摘しました。

 第三章では、「和の精神」をもつ日本人には、言葉だけではなく、雰囲気で語りかけることが大切だと、述べました。

 そして第四章では、「和の精神」は日本人が自分で考えて勝手に考案したものではなく、日本の風土から生まれてくるものなのだ、というお話をしました。
 それゆえに、日本人の心から和の精神は拭い去りがたく、いつでも悪しき衆愚政治へ陥ってしまう可能性がある、というわけです。しかし同時に、「和の精神」は、唯心論と組み合わせれば、素晴らしいパワーを発揮することができます。積極的な心働きがあってこその、「和の精神」というわけです。 そこで第五章では、唯心論を大きくする方法について触れました。


 投票や政治参加は、とても大切なことです。これまで見てきたように、日本人がナチュラルな状態では、「和の精神」がマイナス方向に働き、投票や政治参加に億劫になりがちです。ですから「和の精神」を悪しき方向に働かせないためにも、やはり、少しばかり自分にプレッシャーをかけてでも、政治の話を聞いたり、投票へ出かけたりする必要があるでしょう。
 加えて、教育面では、落ち着いて相手と議論を交わすことのできる技術と習慣を養成すべきでしょう。
 そのようにして唯物論を飼い慣らし、その一方で、伝統ある唯心論を、自信をもって心の中心に据えることができた時にこそ、新たな、そして一段レベルの高い日本人が生まれるものと、私は期待をもって考えております。

 最後までお読みいただきまして、誠にありがとうございました。


(本文、おわり。補説につづく)








唯心論ノススメ


補説1、明治維新前の世界は、唯心論の世界であったか?

 実際には、明治維新前の日本も、完全に唯心論の世界であったわけではありません。唯物論的な風潮が高まり、唯心論を覆い隠すこともあったでしょう。 そのようなときに、戦争が起こったのでしょう。
 しかし、明治維新前の一般の人々について言えば、次の三つの理由から、現代よりも圧倒的に唯心論にアクセスしやすい世界であったと考えています。

1、仏教・神道・士道などが、唯心論を導いていた
2、唯心論を否定するイデオロギーが、存在しなかった
3、「唯心論」や「和の精神」を実感できる、天然の自然(力強い自然や美しい自然)が、豊富に存在していた

 かれらを導いたイデオロギーは、仏教・神道などの、唯心論的なものでした。逆に、現代のわれわれを導いているイデオロギーは、科学=唯物論になります。しかし実際には、完全に唯物論的な世界、完全に唯心論的な世界というのは、存在しません。人間の心のなかで両者は混ざり合い、一方が波のように高まれば、一方は低くなる、という関係にあります。

 ですから、唯物論的なものも、日本の人々の心のなかで、古代から連綿とつづいていました。その象徴のひとつが、「お墓」です。
 唯物論では死について、人々の心に納得いく形で教えることができませんから、死を「お墓」という記号で表したのです。 つまり、唯物論的に「死」とはなにか、と問われた場合、「お墓」を指し示せば、人は「死」を理解した気分になるのです。 それとは反対に、唯心論では、「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」ということになります。

(唯物論的な死……人間は物質で、死ねばすべてなくなる……という思考は、実存する人間の心に大きな不安感をもたらします。この時もたらされた大きな不安を、解消する必要性が出てきます。そこで、お墓が現れます。死が眼前に見える形となり、思考的に死が克服されます。一見、ひずみが解消されたかのような状態になります。しかし実は、心の底には大きな不安が、暗流となって流れつづけます。このため、唯物論的に生きている人ほど、死に対する不安は大きくなります。お墓へのこだわりが強くなります。
 一方で、唯心論的に生きている人は、死に対して、大自然のなかへ帰ることができる、神様の御胸に帰ることができる、仏様の御胸に帰ることができる、ご先祖様たちのもとへ帰ることができる、などというように、生と死に一体感をもつことができ、不安感が少なくなります。
 唯物論というのは非常に偏狭な思考で、人間の生命が無意識のうちに感じている有機的な世界観と合致しません。それゆえに、大きな不安が生まれます。)


 「お墓」の文化の親玉が、「古墳」です。 古墳文化とはつまり、日本人が古代からある程度、唯物論的な思考をもっていたことの表れです。 ただしここでいう「唯物論」と、明治維新以後の「唯物論」とは、 意味合いが異なります。
 明治維新前後に欧米からもたらされた唯物論は、言語によって、先鋭化されたものです。 それは理論武装し、唯心論を否定し、自分を絶対化もします。 この意味で江戸時代以前の「唯物論」と明治以後の「唯物論」はまったく異なるもので、 唯物論は日本の伝統とはなりえません。 逆に、 唯心論は仏教等により長年にわたって、言語化され、文化として先鋭化されておりました。 だからこそ、伝統(トラディショナル)となりえます。


 「和の精神」を初めに明文化した聖徳太子が、仏教の保護者であったことを思い出していただけば、「和の精神」と「唯心論」の距離の近さを、改めて認識していただけるのではないでしょうか。
 聖徳太子の昔を鑑みるに、 古墳文化に終焉をもたらしたのは、日本に新しく導入された仏教文化でした。 日本史に目を向ければ、古墳の減少と、寺院の増加が時代的に重なることが分かります。

 仏教では本来、お墓は造りません。元来の仏教の形に近いチベット仏教でもネパール仏教でも、お墓は造りません。 仏教では死後、生まれ変わることになりますので、お墓は必要ないのです。しかし、日本では古墳時代からつづくお墓の習慣がありますから、 仏教はゆるやかな形での布教を試み、お墓という日本元来の習慣を否定することなく、 日本人のなかに静かに溶け込みました。 以来、仏教は日本において唯心論的イデオロギーを牽引する旗手となったわけです。

 後に世を下って、日本において、 唯心論から唯物論へのイデオロギー転換を象徴する事件が起こります。 それが明治維新における、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」、すなわち仏教排斥運動でした。 人々はこれまで崇め祀っていた「ほとけ様」……仏像を足元に引きずりおろし、無惨に破壊しました。
 日本が唯心論から唯物論へと、舵を切った瞬間でした。


(補説2 につづく)







唯心論ノススメ


補説2、科学的な思考の重要性


 これまで議論を明確にするため、唯物論=科学に反する立場をとってきましたが、実際には、学問や技術の面で、科学的思考はとても大切なものです。それは唯物論科学から数多の恩恵を受けている我々にとっては、言うまでもないことでしょう。
 自然科学が自然の心を教えてくれる、心理学(=唯物論からの心へのアプローチ)が人の心を教えてくれる、そうした側面がたくさんあることは間違いありません。

 しかし、野放しの科学技術は、シビリアンコントロールのない軍隊と同じです。科学は「人間中心」が基本スタンスで、しかも現代の人間を大きくつき動かしているのは心ではなく経済原理・商業原理ですから、人間の心ばかりか、世界中のすべての心を置き去りにして、どこまでも世界を食い尽くし、荒らしてゆく可能性があります。
 ですから、唯心論を上に置いて、唯物論の暴走を抑制する必要があるわけです。

(補説3 につづく)







唯心論ノススメ


補説3、短歌・俳句

 日本の伝統芸術である短歌や俳句が、非常に小さな形をとっていることは、注目に値します。特に俳句は、「季語」を通して自然とのつながりを密接に保っていますから、日本の風土からの「小さく、淡く、おだやかに」という声を、もっとも深く受容した芸術と言えるでしょう。
 そうであれば、すなわちそこには、唯心論や和の精神につながるヒントが隠されているに違いありません。



 菜の花や 月は東に 日は西に

 
 この有名な俳句は、江戸時代の安永3年(1774年)、与謝蕪村(よさの・ぶそん)が六甲山地の摩耶山(まやさん)を訪れたときに読んだ句で、私がもっとも好きな俳句です。この句に触れるたび、私の脳裏には壮大な宇宙が浮かんできます。

 日が西にあるということは、それは燃え盛る夕陽です。 また、その時刻に月が東にあるということは、三日月や半月ではなく、鏡のような満月が、 今しも昇ってきたところです。 太陽と満月は、地平線に近い巨大さを持ちながら、まるで双子のように天の左右に対照を為し、 そして東の果てから西の果てまで、天はすべて晴れわたっているのです。
 地に目をおろせば、一面を菜の花の黄色が覆い尽くし、 夕暮れの黄金の光のなかに風が吹きわたり、そこに無数の生命が息づいている。

 ……こうした壮大な光景に、私の心は圧倒されるのです。 しかもそれはたったの十七文字が語る光景なのです。


 俳句や短歌は、小さく枠を取ることによって、逆に、無限の自由を生み出します。 言葉が短いために、読み手の想像力を、一層、刺激するからです。
 創作の時間も、より短くて済み、読者が読解する時間も短くて済みます。つまり、短い時間のあいだに交流が成り立つということです。短いものですから、読者は何度も、その句を味わうことができます。
 形態を小さくすることは、けして内容を貧しくすることではなく、逆に、豊かさやゆとりを生み出すことになります。「小さく、淡く、おだやかに」という自然の声に従いながら、日本人は「心さえ駆使すれば、小さくても豊かさを生み出せる」、ということに気がついたのだと思います。そして、逆に小さいほうが、ゆとりが生まれる、ということにも気がついたのでしょう。

 上で説明を加えました、「日が西に、月が東にあれば、それは満月なんだ」、などということは、自然に慣れ親しんだ昔の日本人には説明不要な、ほとんど自明の理だったことでしょう。江戸時代以前の人々は、月を、「時計」、「カレンダー」、「照明」として、あるいは「友人」として、あるいは「神様」として捉えており、現代人よりも遥かに月に親しみ、月のシステムに詳しかったのです。
 昔の短歌・俳句のなかには、自然という共通認識を仲立ちにした歌が多かったことと思います。自然は、人の心と心をつないでくれる、大いなる仲介者なのでした。
 「菜の花が咲いている、月が東にある、日が西にある」……そんな唯物的なことではなく、人間のちっぽけな理解を超えたところにある、自然の叡智や、大きな宇宙の均衡。それを実際に目の前にした時の人間の、打ちひしがれるような感動、大きな安心感。なまの自然に囲まれた当時の人々であったならやすやすと手に入れられたであろう、その大きな安定感こそが、この句の詩情の核心なのでしょう。


 自然とともに歩み、「小さく、淡く、おだやかに」という方向性に乗って進み、そのなかで人が心を駆使していけば、無限の豊かさを享受することができる。
 これが俳句や短歌に秘められた教えなのだと、私は思うのです。



 以上で、補説も終わりです。

 長い知的冒険の道のりを、私と一緒に最後まで旅していただきまして、ほんとうにありがとうございました!!

(おわり)




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