「われももののふ」(2) 吉田ふさゑ
昭和十六年の大東亜戦争勃発後、勝利勝利も束の間、日本は満州に中国に南方へと広域に渡る世界を相手に軍を進め、内地尖端病院も傷病兵を収容しきれず温泉地へ後送される状況であった。
昭和十八年四月。
呉の海軍病院は、日赤十ヶ班・海軍看護婦○○名・衛生兵○○名の大病院。他班と交代で入った岐阜班は、内科病棟勤務。そこは鉄筋四階建で呉病の銀座といわれる程で、百三十床程に白衣の勇士、戦傷病者がぎっしり。白衣の天使と呼ばれる二十歳前後の青春まっただなか、軍律の厳しさに耐えいかなる苦しみも死も厭うことなく、ひたすらナイチンゲール精神に忠実に、時には強く優しく、”おかあさん”と呼ばれることもあった。
南方よりの傷病兵は、病院船さえ襲撃されるからと、輸送船に積まれて陸揚げされる患者の悲愴さは余りに無惨で筆舌に尽し難く、病院のベッドについた安堵感はいかばかりであったろうか。
陸揚げの 傷病兵 先づ(まず)は蚤退治
傷兵の 耳の蛆虫 気づかずに
同輩の歌人桜井幸子さんは、短歌にて…
病院船に 護送の兵ら まといたる 襤褸(ぼろ)にびっしり 虱(しらみ)這いいき
靴履きし如く ぶ厚き足の垢 即ち洗い 兵を看取りき
と。
純真で献身的に化粧気もなく忠実な班員に、ある時は「岐阜の山猿」という声も耳に入るようになり、多少の粧いに婦長は目角を立て化粧が濃すぎる、口紅が赤すぎる、電話の声が甘いとか、異性からの封書は取り上げられ説明を必要とし、ことごとく説教を受け、まさに鬼の婦長であった。
血気盛りで戦に荒(すさ)んだ兵士の中に働く看護婦は白衣に包まれていればこそ万にひとつも間違いは許されない責任の重さであろう。分かってはいるものの、あまりの厳しさにどれ程憎んだことか。
戦傷の兵らに紅き唇を見するなと
きびしき婦長を憎みき (幸子)
「滅死奉公」、「君の為」、「国の為」と戦場に犠牲となりし多くの兵士のうち、幸か不幸か傷つき、病にたおれて救われし兵にも軍律は厳しく、荒みきっている白衣の勇士には親切が身に沁むのか、普通の看護も母親の愛情のごとく感じられ、小娘も「かあさん」と呼ばれ、また、恋心に発展することもあり、やさしく冷めたく事務的にならざるを得ない日々であった。
マラリア、アメーバー性赤痢、胸膜炎、肺炎、精神衰弱、脚気、等々…
マラリアの悪寒は強烈で、布団を何枚重ねてもふるえは凄く寒いのである。アメーバー赤痢の何回となく排泄に苦しむ患者に、私たちは小さな身体であっても、大の男を抱き抱えねばならぬ時には不思議な力の湧くものである。
癒えれば再び戦場へ、白衣の勇士の心境はさぞ複雑で苦しかった事であろう。退院すれば否応なく命令に従わねば、戦場に征く。命を惜しむことは許されず、退院間近になると体温計をこすり発熱したかに見せかける事もあり、妻子ある中年には夜毎、夢に家族縁者が出てきたであろう。しかし”軍人は忠節を尽すを本分とす”われわれも一刻も早く戦場へ送り出す使命に専心全うする。血潮の流れはどうする事も出来ない「苦しみ」でもあった。
内科病棟といえども、激戦の後は外科患者も収容(熱傷患者も多く)し、広い廊下も埋め尽くされ、十代の飛行兵も増えて悲惨な戦闘状況も否応なく耳にするようになるも、誰ひとり戦争に負けるなどと思う事はなかった。日本には最後は神風が吹くのだ、と信じ切って乗り切る覚悟で燃えているのである。
十代の飛行兵は症状が少し軽くなれば「退院させて」とせがみ、飛行機が待っていると言う、戦闘精神に燃えたぎっている少年、健気で命知らずの純真さには頭の下がる思いと愛らしさに胸がつまった。
若鷲や ハンカチに書く 恋の文
夾竹桃 挙手の礼して 退院す
看護は極力少人数にして、防空壕を掘る兵士の手伝いに、リヤカーで泥運び馬穴(バケツ)で送水の防火訓練。山裾にある病院で山は何処からも入れる壕ばかり。山裾には夾竹桃が高く茂って真赤に咲き誇っていた。炎天暑くても嫌とは微塵も思わなかった。夜間は街中灯火管制、蛍火なれども許されず、まして病棟においてはしっかり暗幕が大窓に引かれる下で夜勤をする。
今夜も空襲警報はなくまずまずと思うと、ふと母やら病気の兄を憶い暗幕をすかし星を眺めて無事を祈り、戦場は如何(いか)にと涙することもあった。いよいよ空襲警報も繁くなり、発令あらば直ちに救護態勢の位置に就き担架を組み待機する。時には担架にて夜露にあうことも。
昭和二十年七月二日、呉工廠、港を主に凄まじい焼夷弾攻撃にあい、呉市は火の海となる。
病院では看護婦寮が真先に、病棟も一ケ病棟が焼け、わが班の書記は片足が飛んだとの事。
救護に担架を組む間もなく患者を背負って逃げた看護婦もあり、防空壕に避難していても危険だから避難せよとの命にて焼夷弾の雨降る中を逃げ惑う有様にて朝まで街は燃え続き、明くる晩もまだまだ燃えているのが見えた。
空襲の明けた朝 院内片隅の方に焼死体が何体か放ってあり眼を伏する事もあった。
この時 街の中の寺院に宿していた日赤岡山班は、一ヶ班が防空壕の中で爆死となる。それでもまだこの戦に負けるとは誰も口にする者はなく益々敵愾心(てきがいしん)に炎えるばかり。
「鬼畜米、英」と憎み、米、英人はどんな顔をしているだろうと話す日もあった。
その後も工廠、軍港等、徹底的に空爆、実に悲惨な軍艦の傾き、反撃の戦力など全く失っている事は誰しも認めざるを得なかった。
私達の故郷、岐阜も空襲されたらしい、と、噂に聞くも早ラジオ放送も途絶え情報は混沌としていた。にもかかわらず「勝つ迄は」とだけは信じていた。
軍は患者収容の為 温泉宿を病舎とし、前述の如く各地へ転送していて、道後温泉には患者と共に私も半年程、部屋での看護を行っていた。幸い道後温泉は空爆されなかったが、呉の本院に戻ってからは患者の看護どころか避難訓練や、防空壕掘りの泥運びに汗し、日焦けして看護衣をまとう労働者になっていた。
この焼野原の軍港ももう空襲も来ないだろう、しかし日本はどうなる、内心誰もが不安に思っていただろう。
写真:昭和十二年ころの、呉海軍病院の看護士たち。
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