「われも もののふ」

はじめに

祖母、吉田ふさゑ(旧姓:西口)は大正生まれ、岐阜県本巣郡の小作人の家に生まれた。
近くには万葉集にも詠まれた糸貫川が流れ、その土手を桑畑が覆い尽くしていた。

兄が五人、姉が四人、十人兄弟姉妹の末っ子であった。
家は養蚕農家で、祖母の母は、十人の子供の養育に加え、「お蚕さん」の世話、桑の木の世話、畑仕事、家事、目の回るような忙しい毎日を過ごした。
この人は、まったく学がなかったにも関わらず、子供たちに尋ねられると、植物の名前をすべて知っていたという。
祖母はこの母を、つねに誇りに思っていた。


さて、祖母は十代後半の青春時代を、看護士として、戦争のまっただなかで過ごした。
晩年になってその時代のことを、手記にしたためた。
すでに祖母は他界したが、その遺志に沿って、多くの人の目に触れるよう、ここに記載するものである。

「この世から戦争がなくなりますように」……それが祖母の大きな願いである。

孫・小滝ダイゴロウ 



『われももののふ』(1) 吉田ふさゑ

昭和十一年、日本の情勢は盧溝橋事変より支那事変へと発展しつつあり、戦のニュースが毎日ラジオより流れ、村から出征兵士が出るようになる。


ちょうど二十歳になる兄は徴兵検査で甲種合格、日本男子としてこの上なき栄誉と讃えられ、十二年早々、朝鮮平壌へ入営となる。


入営後、短期教育で北支山西省へ出征となり、ある日「戦傷死」の公報が入る。「九月一日」とある。驚きと悲しみの内に手柄とも讃えられ奇妙な悔しさであった。


その頃の私は十三歳、悲しみの中に小さな愛国心が乙女心に芽生えた。(兄の)戦傷死という事が特に胸をうち、それは看護婦が足りないのでは? と単純な思いに悶々としながら勉学に家事に励む。


   ※ ※ ※


ある日、ラジオ放送で「日赤救護看護婦募集」と聞き、飛びつく思いで決意し、両親には秘密に兄に頼み願書を提出する。


受験日は二日あり、前日は体格検査に合格。
日頃病弱であった私が合格したという喜びか、内緒が暴露した驚きか、その夜、父は脳卒中にてわずか四時間の患いで天国へ旅立ったのである。(五十九歳)


父の死に悲しみうろたえている場合ではない、わが道に迷いはなく学科試験、面接に、やっと駈けつけ面接官に両親は健在と苦しい返答をしたものである。

初七日や 合格通知 抱きしめて


急死の父を悼みながら希望の叶った今は、心中、旭の昇るがごとく輝き、病弱の母にさえ同情心もうすれ、湧き立つ思いであった。

入学の 衿のブローチ 赤十字

煤の顔 見つめ合うのみ 入学す

(孫注;看護学校は飛騨高山にあった。本巣郡から、汽車で向った。トンネルを抜けると、みなの顔が煤だらけだった。この時、十七歳)




   ※ ※ ※


軍隊に準じた規制の中での看護学、実習に専念。その十二月大東亜戦争勃発。寮生活も日毎厳しくなり、すべて配給制度の中、毎月一日は興亜奉公日、朝は神社へ参拝に、昼飯の副食はなく梅干一ヶのみ、空腹に堪えながら「国のため」と誰ひとり愚痴る者はなく専心勉学に励む毎日。

消燈や テスト勉学 凍(こご)む廊下


 (孫注;飛騨高山は豪雪地帯。あの真から底冷えする高山の冬。十分な暖房器具もなかったであろう。その寒さは、祖母の記憶にこびりつくほどであったろう)

卒業の記念の 春慶硯箱(すずりばこ)


 (孫注;「春慶硯箱」は、高山の伝統工芸。美しい漆のすずり箱。このひとことに、冬が去り春の来た喜び、卒業の喜びが目に浮かぶようである)

卒業を待たれ 召集令状来

村人へ 挨拶高き 花の下

日赤支部にて貸与の制服、その他衣嚢等、すべて貸与で、一ヶ班二十名は呉(くれ)海軍病院へ発つ、行く先は公表されず。




看護学校を卒業した十九歳の少女は、卒業とともに軍に配備される。
この時の任地への配備は、成績順であったという。成績のよいものから内地勤務(国内)、選に入らなかったものは外地(国外)へと送られた。
どこへ配備されるかも知らされず、二十名一班で任地へ。祖母が送られたのは、広島県、呉(くれ)市の海軍病院であった。




「われももののふ」(2) 吉田ふさゑ

昭和十六年の大東亜戦争勃発後、勝利勝利も束の間、日本は満州に中国に南方へと広域に渡る世界を相手に軍を進め、内地尖端病院も傷病兵を収容しきれず温泉地へ後送される状況であった。

昭和十八年四月。
呉の海軍病院は、日赤十ヶ班・海軍看護婦○○名・衛生兵○○名の大病院。他班と交代で入った岐阜班は、内科病棟勤務。そこは鉄筋四階建で呉病の銀座といわれる程で、百三十床程に白衣の勇士、戦傷病者がぎっしり。白衣の天使と呼ばれる二十歳前後の青春まっただなか、軍律の厳しさに耐えいかなる苦しみも死も厭うことなく、ひたすらナイチンゲール精神に忠実に、時には強く優しく、”おかあさん”と呼ばれることもあった。

南方よりの傷病兵は、病院船さえ襲撃されるからと、輸送船に積まれて陸揚げされる患者の悲愴さは余りに無惨で筆舌に尽し難く、病院のベッドについた安堵感はいかばかりであったろうか。


陸揚げの 傷病兵 先づ(まず)は蚤退治

傷兵の 耳の蛆虫 気づかずに


同輩の歌人桜井幸子さんは、短歌にて…

病院船に 護送の兵ら まといたる 襤褸(ぼろ)にびっしり 虱(しらみ)這いいき

靴履きし如く ぶ厚き足の垢 即ち洗い 兵を看取りき

と。

純真で献身的に化粧気もなく忠実な班員に、ある時は「岐阜の山猿」という声も耳に入るようになり、多少の粧いに婦長は目角を立て化粧が濃すぎる、口紅が赤すぎる、電話の声が甘いとか、異性からの封書は取り上げられ説明を必要とし、ことごとく説教を受け、まさに鬼の婦長であった。


血気盛りで戦に荒(すさ)んだ兵士の中に働く看護婦は白衣に包まれていればこそ万にひとつも間違いは許されない責任の重さであろう。分かってはいるものの、あまりの厳しさにどれ程憎んだことか。


戦傷の兵らに紅き唇を見するなと
 きびしき婦長を憎みき
 (幸子)


「滅死奉公」、「君の為」、「国の為」と戦場に犠牲となりし多くの兵士のうち、幸か不幸か傷つき、病にたおれて救われし兵にも軍律は厳しく、荒みきっている白衣の勇士には親切が身に沁むのか、普通の看護も母親の愛情のごとく感じられ、小娘も「かあさん」と呼ばれ、また、恋心に発展することもあり、やさしく冷めたく事務的にならざるを得ない日々であった。


マラリア、アメーバー性赤痢、胸膜炎、肺炎、精神衰弱、脚気、等々…
マラリアの悪寒は強烈で、布団を何枚重ねてもふるえは凄く寒いのである。アメーバー赤痢の何回となく排泄に苦しむ患者に、私たちは小さな身体であっても、大の男を抱き抱えねばならぬ時には不思議な力の湧くものである。

癒えれば再び戦場へ、白衣の勇士の心境はさぞ複雑で苦しかった事であろう。退院すれば否応なく命令に従わねば、戦場に征く。命を惜しむことは許されず、退院間近になると体温計をこすり発熱したかに見せかける事もあり、妻子ある中年には夜毎、夢に家族縁者が出てきたであろう。しかし”軍人は忠節を尽すを本分とす”われわれも一刻も早く戦場へ送り出す使命に専心全うする。血潮の流れはどうする事も出来ない「苦しみ」でもあった。


内科病棟といえども、激戦の後は外科患者も収容(熱傷患者も多く)し、広い廊下も埋め尽くされ、十代の飛行兵も増えて悲惨な戦闘状況も否応なく耳にするようになるも、誰ひとり戦争に負けるなどと思う事はなかった。日本には最後は神風が吹くのだ、と信じ切って乗り切る覚悟で燃えているのである。

十代の飛行兵は症状が少し軽くなれば「退院させて」とせがみ、飛行機が待っていると言う、戦闘精神に燃えたぎっている少年、健気で命知らずの純真さには頭の下がる思いと愛らしさに胸がつまった。


若鷲や ハンカチに書く 恋の文

夾竹桃 挙手の礼して 退院す


看護は極力少人数にして、防空壕を掘る兵士の手伝いに、リヤカーで泥運び馬穴(バケツ)で送水の防火訓練。山裾にある病院で山は何処からも入れる壕ばかり。山裾には夾竹桃が高く茂って真赤に咲き誇っていた。炎天暑くても嫌とは微塵も思わなかった。夜間は街中灯火管制、蛍火なれども許されず、まして病棟においてはしっかり暗幕が大窓に引かれる下で夜勤をする。


今夜も空襲警報はなくまずまずと思うと、ふと母やら病気の兄を憶い暗幕をすかし星を眺めて無事を祈り、戦場は如何(いか)にと涙することもあった。いよいよ空襲警報も繁くなり、発令あらば直ちに救護態勢の位置に就き担架を組み待機する。時には担架にて夜露にあうことも。

昭和二十年七月二日、呉工廠、港を主に凄まじい焼夷弾攻撃にあい、呉市は火の海となる。

病院では看護婦寮が真先に、病棟も一ケ病棟が焼け、わが班の書記は片足が飛んだとの事。

救護に担架を組む間もなく患者を背負って逃げた看護婦もあり、防空壕に避難していても危険だから避難せよとの命にて焼夷弾の雨降る中を逃げ惑う有様にて朝まで街は燃え続き、明くる晩もまだまだ燃えているのが見えた。

空襲の明けた朝 院内片隅の方に焼死体が何体か放ってあり眼を伏する事もあった。

この時 街の中の寺院に宿していた日赤岡山班は、一ヶ班が防空壕の中で爆死となる。それでもまだこの戦に負けるとは誰も口にする者はなく益々敵愾心(てきがいしん)に炎えるばかり。

「鬼畜米、英」と憎み、米、英人はどんな顔をしているだろうと話す日もあった。


その後も工廠、軍港等、徹底的に空爆、実に悲惨な軍艦の傾き、反撃の戦力など全く失っている事は誰しも認めざるを得なかった。

私達の故郷、岐阜も空襲されたらしい、と、噂に聞くも早ラジオ放送も途絶え情報は混沌としていた。にもかかわらず「勝つ迄は」とだけは信じていた。

軍は患者収容の為 温泉宿を病舎とし、前述の如く各地へ転送していて、道後温泉には患者と共に私も半年程、部屋での看護を行っていた。幸い道後温泉は空爆されなかったが、呉の本院に戻ってからは患者の看護どころか避難訓練や、防空壕掘りの泥運びに汗し、日焦けして看護衣をまとう労働者になっていた。

この焼野原の軍港ももう空襲も来ないだろう、しかし日本はどうなる、内心誰もが不安に思っていただろう。






写真:昭和十二年ころの、呉海軍病院の看護士たち。



祖母はその年、二十一歳になっていた。
呉と広島とは、目と鼻の先であった。
大規模な空襲がつづいた後、その恐ろしい日は、突然にやってきた。






「われももののふ」(3) 吉田ふさゑ

いよいよ八月六日、原爆投下の日。米軍のただ一機の落とした爆弾、空襲警報もなく閃光と爆発音、その先の一瞬青紫色のあの独特の色は今も鮮明に記憶している。



写真:昭和二十年八月六日、呉の吉浦から撮影されたキノコ雲。


「火薬庫の爆発か?」などと言い案じながら、患者、職員、みんな右往、左往していた。この時私は、高台にある病院の三階病棟で最も眼の前にキノコ雲を見たのである。真白く、真っ直ぐにもくもくと昇る煙に、(火薬庫にしては…)と誰しも不思議だったと思う。


しばらくして救護隊派遣の放送が入り、岐阜班からは特に健康な看護婦四名との命令にて、他班からの者と、医師、衛生兵の救護態勢を整え、トラックで現場に向うもその修羅場には目を覆うばかりの惨状にて、焼野原には既に斃れた人が重なり、手足も吹っ飛び、焦げただれ、水、水、と叫び喘ぐ人、救護隊は現場を去り、再度火傷用の肝油リバノールを満載して救護に向かう。

現場の凄惨な修羅場は、夜の闇に蝋燭の灯でひしめく被災者も、どうにか生きながらえて治療を乞うことができる人にのみ肝油リバノール(消毒薬、軟膏)を貼る他なく、髪も皮膚も焦げただれた人、人、人……この世の地獄は今ここにあった。


原爆の修羅場 救護の役立たず


(この時は特に優秀なものが選ばれて爆心地に送られたのだが、この二年余の勤務中、祖母は体調を崩すことがたびたびあり、そのために、祖母自身は選から外れた。

この時現場に救護に入った人々は、自身も大量の被爆を受けながら、「治療」という言葉がむなしくなるような行為を、地獄絵のような有様のなかで、為しつづけたのである。

一方、呉の病院にも次々と原爆による患者が搬送され、祖母ら看護士たちはその対応に火の車となった)


この巨大な破壊能力、殺傷能力を持つ爆弾の得体は知れず、ひとときは「ピカドン」と名づけていた。その後米軍の新型兵器らしいと噂を聞くようになる。

被災者が収容され、「水」「水」と要求され暑い暑い病室に肝油リバノールの悪臭と、汗の臭いで鼻をつく。白血球に異常があるといって、検査室勤務は採血して顕微鏡のぞきに追われていたという。無我夢中の看護に追われ終戦迄の約半月程は何故か記憶が薄い。

当時の衛生兵の話によると収容出来る病院がなく、天幕を張って海岸で治療をしていたという。

八月十五日正午には、重大な放送があるから全員整列せよ、との命令があり、陛下の玉音放送にて敗戦を知り、泣き崩れるばかり、誰一人として声を出すものはなかった。ゴム風船の空気を抜いたように一人になるまで戦うと張りつめていた緊張が一挙に涙となり怯(ひる)んでしまった。

(孫注; 怯(ひる)む = 手足が萎える、しびれる)

患者の整理、病院の整理に一変した日日となり、やがてこの病院は米軍に摂収される。院内はそのままで病院に必要な医療品を運び出して安浦海兵団へ移転する事となり、その海兵団の兵舎が看護婦の宿舎となる。一歩踏み込んだら、蚤がびっしり足に飛びつき、負け戦の哀れさを否応なく感じ、あまりにも悲しかった。


間もなく、またも移転となり、大竹潜水学校へ引っ越して、ようやく解散となる。衣類等、捨てなければとても持ち帰れないと、全員使丁さんに預け、身のまわり品だけを衣嚢に詰め込み、制服で復員兵と一緒に汽車(無蓋車)に乗り、夜露を凌ぐ為に復員兵士の毛布を被りながら、眠っていても途中で汽車は止まり、容易に岐阜には着かず、やっと着いた岐阜駅に屋根はなく、ホームへ降りて一望に見る焼野原に誰も言葉はなかった。


焼け残った別院へ日赤支部が入っていて挨拶報告し、後日残務整理員の予定を約し、解散する。

   ※ ※ ※

去年の春(平成十一年・七十五歳)、戦時の衛生関係者の集いに初めて出席し、半世紀以上前の呉がとても懐かしく、美しい煉瓦造りの多い港辺りの病院をまわり、愚作を……

春の灯や 滅死奉公せし 昔

春愁や プラトニックラブ 死語となり

看護婦の 爆死の地なり 陽炎(かぎろ)へり

花冷えや 戦艦の色 怪しかり

冴え返る 潜水艦を まのあたり


花吹雪 「桜と錨」の 官舎ドア

侘助や かつて官舎の 魚鱗葺(ぎょりんぶき)

 (孫注; このふたつの句は、旧呉鎮守府・長官官舎のこと。魚麟形の瓦屋根で、今でも一般公開されている)


春陰や 戦艦のプロペラ 展示され


戦後半世紀以上を経て、今見る港町呉の変貌ぶりに、懐かしいのと、とまどいと平和に感激しつつ、水兵姿の自衛隊員を町に見て驚き、港に潜水艦の並びいるのに目を疑う程で、いかなる事があろうとも平和の為の自衛艦であって欲しいと願わずにはいられなかった。


戦争を知らない現代の人には語り尽くせない戦争の悲惨さ、苦しさ、貧しさ、敗戦の哀れさ、どん底生活に堪え忍んで働き抜いて立ち上がった国民、この平和の中に当時を語ろうにも聞く耳を持たず、語る人も日毎に少なくなる今日、戦争の一部でもここに知っていただける機会を得られましたことは大変うれしく思っております。


同輩の中には満州に、中国に、ビルマ方面にと派遣され、最後には重態患者は見捨てて、各自青酸加里を離さず命だけをと互いに激励し合って撤退して来たとの話も聞く。


今の看護学生に聞かせて欲しいと頼まれても、「話で語れるものではない」と断っているという。そうした話を聞いて、私達内地勤務は前線に比べ、誠に申し訳ない勤務だったにちがいない。いつまでも平和な世でありますよう心から願わずにはいられない。


霾(つちふ)るや 征きて還らぬ 兄の貌(かお) 

 (黄砂が降ると、心に浮かぶ、出征した兄のおもかげ)


原爆忌 あの一閃の 色怪し



(了)



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