美濃赤坂宿 2007. 04. 25 ;


 
 

しばし、江戸時代、美濃赤坂(岐阜県大垣市)の情景を描きたい。


中山道は、京都と江戸とを結ぶ主要街道である。

東海道五十三次というが、中山道は六十九次…つまり、六十九の宿場がある。

中山道は東海道に比べ、山道が多いが、川などによる水の困難(川止め)がないのが利点で、女性の利用者が多かったと言われる。





その中山道に、美濃赤坂という宿場町がある。

江戸時代には、参勤交代の大名行列や旅客が行き交った。

と同時に、赤坂港と言って、揖斐川の本流がここを流れており、往時、港には五百艘を超える船が舳先を並べたそうである。







 



◎ 金生山
街道の北側には、金生山という山がある。

この山はその名の通り、”金属・鉱物を生む山”である。

良質の鉄が多く産出された。赤坂港近辺には鍛冶屋町があり、製鉄業が盛んであった。

そればかりでなく、石灰岩の産地でもあり、明治期には大理石の産地として栄えた。




余談であるが、『関の孫六』という名刀がある。

戦国時代、「折れず曲がらずよく斬れる」と言われ、武田信玄、豊臣秀吉、前田利政などがこれを佩した。

その孫六、もともとはこの赤坂の風土より生まれた。

良質な赤鉄鉱、石灰石、刀作りに必要な粒子の細かい粘土などが多く産出され、そのほかにも、刀の柄と刀身を止める非常に強い竹(目釘竹)も多くはえていた。

これらの好素材と、関鍛冶の高度な鍛錬技術から、孫六は生まれたのである。

その刃は、かけはじめた物でさえ、他の刀を両断してしまうほどであったという。




さてこのように、陸運と海運の大動脈が交わり、そして鉱物資源が豊富な土地…江戸期の美濃赤坂とは、言ってみれば、当時の文化の集積地のような場所であったのだろう。

そのような豊かで賑わいある風土的背景を念頭に、美濃赤坂ゆかりの幕末の人物を紹介したい。















 

◎ 生誕地の碑は街道沿い、子安寺への入り口の所にある。





◎ 墓地は街道沿いの、妙法寺にある。

■ 所郁太郎

1838(天保九年) 1 中山道赤坂宿の酒造家矢橋亦一の四男として生まれる。
1848(嘉永元年) 11 揖斐郡大野町西方の医師・所伊織の養嗣子となる。
1853(嘉永六年) 16 ペリー来航。
1855(安政二年) 18 京へ上る。
美濃出身の志士・柳川星巌と親交を結ぶ。
1860(万延元年) 23 大坂の適塾に入り、緒方洪庵に学ぶ。
京に医者として開業。
1862(文久二年) 25 所家に戻り、お辰と結婚。
1863(文久3年) 26 長州藩邸内の医院総督となり、八・一八の政変では長州に下向。
1864(元治元年) 27 長州藩領の吉敷郡に開業

暗殺者に襲われ瀕死となった井上馨を、救う。
1865(元治二年) 28 遊撃隊参謀として高杉晋作を助けて転戦したが、陣中で腸チフスを発病し、吉敷村の陣営で没した。

元治二年の段階では大垣藩は佐幕藩であったため、地元ではひっそりと葬られたとか…。


まさに”人物”であったのだろうと、想像に難くない。

もしこの人が早世しなければ、第一流の志士として、新政府の要職についたことは間違いがない。



”適塾”という、幕末の有名な塾がある。

当時の塾生であった福沢諭吉によれば、

「書生はみな活発有為の人物であるが一方から見れば血気の乱暴書生ばかりでなかなか一筋縄でも二筋縄でも始末にいかぬ人物の巣窟」

「学問勉強ということになっては当時世の中に緒方塾(適塾)生の右に出るものはなかろう」

所郁太郎は、そのような塾で塾頭を務めた男である。



幼い頃から医学を学び、なます切りにされた瀕死の井上馨を、畳針で五十針縫い合わせた。才知と度胸の男であると、筆者は想像する。




元長州藩士・近藤清石の『靖献事跡』によれば、所郁太郎は、

「人ト為リ、沈毅、謀略アリ、人ト接スルヤ、言温シテ色和、隊中第一流人物ノ称アリ」

とある。

(人となりは、非常に落ち着いており、緻密に考えを巡らす事ができる。人と接するときは、言葉遣いは温和で、態度もなごやかである。隊の中では第一流の人物といわれる。)









 



■ 谷 鼎 (たに かなえ)

赤坂の大理石産業は、幕末、谷 理九郎・鼎 父子によって始められた。

金生山から集めた大理石細工…すずり、かんざしの根がけ、きざみタバコ入れのおじめ玉、置物などの小物が、美濃赤坂の宿場で大繁盛となった。


谷鼎はその後、大理石細工の店を開き、こんにちの赤坂の大理石産業の基礎を作った。


※ 赤坂の大理石は国会議事堂などにも使われており、外国産に比べ、色が多彩、模様も複雑、化石を多く含むなどの美点を持つ。



幕末は天狗党に従軍。明治二年・没。




【天狗党の乱】

水戸藩の尊皇攘夷派が中心となり、元治元年、筑波山で決起。藩内での内乱の末、京をめざして進軍したが、幕府追討軍に追われ、加賀藩に投降。過酷な監禁を受けた後、352人が斬首。他、遠島・追放などの処分がくだされた。









 



■ 戸田三弥

下表は、幕末の大垣藩の動きである。

できごと
1858(安政五年) 九代目藩主・戸田 氏正が、安政の大獄により隠居。
長男・十代目藩主・戸田 氏彬(佐幕派)が家督を継ぐ。
1864(元治元年) 蛤御門の変で、京都・伏見街道にて福原越後率いる長州軍を撃退。

天狗党の上洛を阻止。
1865(慶応元年)

第二次長州征伐に出兵。小瀬川口先鋒。徳川家茂を警護。

戸田 氏彬・病死

弟・十一代藩主・戸田 氏共(うじたか)が家督を継ぐ。

1868(慶応四年) 鳥羽伏見の戦いで、佐幕藩として戦うも、その後、藩論を勤皇に統一。

戊辰戦争では東山道先鋒として東北各地を転戦した。

戸田三弥は藩家老。藩老・小原鉄心と共に、藩論を勤皇に統一。
戊辰戦争では、軍事総裁として大垣藩を率い、東山道先鋒として東北各地を転戦した。明治新政府では要職を歴任。









 



■ 戸田極子 (とだ きわこ)(1857〜1936)

岩倉具視の次女。明治四年、第十一代大垣藩主・戸田氏共(うじたか)と結婚。

鹿鳴館の華と呼ばれた。




【鹿鳴館】

明治政府の最重要課題は、外国との不平等条約の撤廃にあった。そのために外国人に「文明国日本」をアピールする必要があった。鹿鳴館は明治十六年・十一月二十八日、井上馨の肝煎りで、外国人接待の場として開館した。そこでは毎夜、西洋流の舞踏会が開かれたという。


鹿鳴館では、接待の舞踏会の他にも、洋服着付、洋食マナー、外国語会話、外国人との交際法などの講習会や、音楽会、慈善バザー等が開かれた。参加者は上流階級に限るが、西洋文化を学ぶための情報スポットの役割を負っていた。


しかし、この鹿鳴館外交は、国粋主義者や、貧しい庶民層などの世論の反発を受けて、失敗に終わる。


他の日本人に先駆けてイギリスの地を踏み(1863/文久3)、英国紳士教育をわずかの期間ながらも衝撃を持って受けた外務大臣・井上馨。一時も早く日本を文明化したいという彼の熱望は、当時の貧しい日本の現実にとって、あまりにも早すぎたのだろう。





戸田極子は、ダンスや英語が得意であり、また琴の名手でもあった。
そして鹿鳴館で磨かれた社交術で、ウィーンの社交界において、日本とオーストリアの親善に尽くした。


鹿鳴館は失敗だと言われるが、戸田極子のこのような例を見ると、井上馨の撒いた種は、徐々にではあるが日本を文明国へと花開かせるための、大切なものであったと思う。衣服の西洋化、音楽の西洋化、料理の西洋化などは、鹿鳴館の華々しい夜に、端緒を持つのかもしれない。




大垣では平成十年に、次のような演劇が上演されたようである。

市民創作劇
「揺らぐ明治にたつ
 〜戸田氏共・極子をめぐって

幕末から明治にかけて時代を華麗に駆け抜けた最後の大垣藩主、戸田氏共伯爵と夫人で鹿鳴館の華と呼ばれた戸田極子さんの生き様を、同じ時代に生きた伊藤博文、井上馨、ブラームスらとの人間模様を織り混ぜて描く歴史ドラマです。

…見たかったなあ。



参考リンク:
http://www.elph-studio.com/gengi/edo3.html









 


■和宮妃(1846-1877)

文久二年(1862)、幕府と朝廷との公武合体の流れの中で、時の孝明天皇の妹・和宮と第十四代将軍家茂との婚礼が行われた。



皇女が、より身分の低い将軍家に嫁ぐ(降嫁)というのは前代未聞のことであった。それが行われたのは、以下のような政治的理由によった。

幕府側にとっては、失墜しつつある幕府の権威を取り戻すため、尊皇攘夷派を押さえるため。

朝廷側(岩倉具視等)にとっては、幕府に攘夷実行を実現させるため、朝廷の政治力・発言権を強めるため。

そうした政治的思惑の中で、本人や兄・孝明天皇の意図とは関係なく、和宮妃降嫁は押し進められた。




京都から江戸へ、和宮妃の嫁入り行列は、中山道を通った。

赤坂宿は宿泊地のひとつに選ばれたが、その際、見苦しくないようにと、街道沿いの殆どの家が新しく建てかえられた。これを地元では「お嫁入り普請」と呼ぶ。
これは幕府からの借金で為されたが、間もなく幕府が倒れたため、借金は帳消しになったとのこと。


そのおかげか(?)、和宮妃は今でも地元の人々のあいだで親しまれている。
大垣祭りでは、地元の若い女性が和宮に扮し、街道筋を姫行列が歩くのである。



参考リンク:

http://www.pref.gifu.lg.jp/pref/gib/5_no1/0411/5023.htm









 





■矢橋家

この稿の最後に、矢橋家を紹介したい。先の所郁太郎も、この矢橋家の出身。

矢橋家は,赤阪の旧家で、家屋や門は国の重要文化財に指定されている。

江戸時代には、本陣(参勤交代の大名らの宿舎)も務めており、現在では林業・鉱業を経営しておられるとのこと。


実際に行ってみると、その木造建築の大きさには、圧倒される。


参考リンク:
http://www14.plala.or.jp/masao-hayakawa/work/yabashi/yabashi.html
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